Japanese Translation of "Science and Culture Today"

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「特定された複雑性」について

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「還元不能な複雑性」について

「還元不能な複雑性」もインテリジェントデザイン論にとって重要な概念です。細菌の鞭毛など実際の生物にあるシステムを例にとって議論されています。

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人類の起源

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進化が私たちに自由意志を与えたのか?

This is the Japanese translation of this site.

 

ダニエル・ウィット

2025/3/4

 

唯物論的な神経科学者による自由意志についての本を手に取れば、その主旨は一般的に「自由意志は単なる幻想にすぎない」という説明だと想定して間違いありません。つまり、私たちは実際には自然界の盲目的な力のなすがままであり、したがって自らの行動に対する責任はないということです。ですから、自称自然主義者が自由意志を擁護するのを見るのは、驚きであり、ある意味で新鮮でもあります。それこそが、ダブリン大学トリニティ・カレッジの神経生物学者ケビン・ミッチェルが、『Free Agents: How Evolution Gave Us Free Will』で行おうとしていることです。

 

デニーズ・オリアリーがこの本について指摘しているように、自由意志をめぐる科学的論争は少し再燃しているようです。同じ年に、別の著名な科学者による正反対の立場を論じる本 (ロバート・サポルスキー著『Determined』) も出版されました。そこで、ミッチェルの著書を読んだ後、私は『Evolution News』の読者のために、彼の論議の詳細を少し掘り下げてみる価値があると考えました。

 

この本は成功しているでしょうか? 私の評価では、ノーであり、イエスであり、またノーでもあります。ここには、実際にはいくつかの異なる問いが介在しています。「私たちに意志はあるのか?」「それは自由なのか?」「進化がそれを私たちに与えたのか?」「もしそうなら、どのようにしてか?」という問いです。これらの主題にはそれぞれ独自の科学的・哲学的困難があり、本書の説得力は全ての点において均等ではありません。論議のさまざまな筋道を整理するために、副題に従って順番に進めていきましょう。まずは「進化がいかにして私たちに与えたか」から始めます。

「進化がいかにして私たちに・・・を与えたか」

ダーウィン的な過程が複雑な神経系を作り出すことが可能である、あるいは実際に作り出したという主張の弁護を期待している人は、失望することになるでしょう。それがこの本の主眼ではありません。ごくわずかな例外1を除いて、ミッチェル博士は、(a) ダーウィン的過程が達成できることに実質的な限界はない、(b) 生物学に存在するものは全てダーウィン的過程を通じて生じたに違いない、という暗黙の前提に立って論を進めています。つまり、この本は主に自然界に存在するものを記述することに関心があり、「進化した」という言葉は「存在する」の同義語となっています。

 

そのため、本全体を通して「メカニズムが進化した」といった表現が支配的です。複雑なシステムは、具体的な詳細や関連する工学的問題にあまり気にせずに、単に「構築された」とか「発明された」、あるいは「デザインされた」とさえ表現されます。以下の節が典型的です。

 

より複雑な生物が出現し、新たなニッチ (生態的地位) を占有・創出し、可能な行動のレパートリーを拡大させた。その後、生物の全ての構成部位の動きを調整し、行動を選択するためのシステムが必要となった。筋肉が進化し、それらを調整するためのニューロンも進化し、当初は単純な神経網として分布していた。進化が進むにつれて、神経系はより複雑になり、介在ニューロンの層を介して感覚構造と筋肉を結びつけた。信号の意味は直接的な行動から切り離され、内部表象が生じるようになった・・・。

 

公平を期すなら、ミッチェルは恐らく、他の可能な説明に対してダーウィン的進化を擁護しようとしたわけではありません。『Free Agents』の核心は、私たちがどのように進化して現在の姿になったかを説明することではなく、神経生物学の最先端によると、単に私たちが何であるかを記述することにあります。そこがこの本の輝いている部分です。

「自由」

自由意志に関する一つの見解である「両立論 (コンパティビリズム) 」は、唯物論的な決定論と自由意志は実際には両立可能であると言っています。この立場はどうやら心の哲学の界隈ではかなり人気があるようで、ダニエル・デネットなどの有名な哲学者によって論じられてきました。その論議によれば、第一に、生物が「他の方法でも行動できたか」どうかは重要ではありません。重要なのは、その生物が行動の源泉であるということです。つまり、たとえ自分が何を望むかを「望む」ことができなくても、自分が望むことを行えるのであれば、私たちは自由意志を持っていると合理的に言うことができるということです。第二に、両立論者は、生物とその環境があまりに複雑であるため、将来のある状況で生物が何をするかを予測する方法は理論的にさえ存在しないと指摘します。したがって、あらゆる実用的な目的において、私たちは自由なのです。

 

ミッチェルは、これらの論議に説得力がないと考えています。それらは、単に視点や定義を変えれば問題は消え去ると言っているように見えます。「しかし、この一連の議論には、ある種の手品のようなごまかしが含まれているというような気がしてならない」と彼は書いています。「主要な問題に立ち向かうのではなく、回避された、あるいは否認さえされたかのような、何らかの (恐らく無意識の) 誤誘導が行われているように感じられる」。むしろ、システムには何らかの本質的な非決定性が存在しなければなりません。さもなければ、「どんなに複雑であっても、行為者は自らの構成要素によって決定論的に振り回されることになる」からです。

 

ミッチェルが感じている「手品」とは、認識論と存在論の混同、すなわち「知られ得ること」と「存在すること」の混同であると私は考えます。いずれにせよ、ミッチェルはこの騒ぎは不必要だと主張します。自由意志が厳格な決定論と両立する必要は実のところ存在しない、なぜなら、結局のところ物理学は厳格に決定論的ではないからだ、と彼は言います。その要件は、全てが単純なニュートンの法則に従って容赦なく動いているように見えた過ぎ去った時代の遺物です。対照的に、現代のほとんどの量子物理学者は、粒子が実際にその動きにおいてある程度の自由度、すなわち真のランダム性を持っているように見えることに同意しています。したがって、ミッチェルは「物理学の法則の中に、主体性や自由意志の可能性を先験的に排除するものは何もない」と述べています。

 

事実、生物が非決定論的な方法で行動していることをさまざまな研究が示しているようです。ある興味深い実験では、ヒルの中枢神経系に電気プローブが直接取り付けられ、実験者が環境の複雑さを完全に迂回して、全く同じ刺激を繰り返し与えることができました。そのような完全に制御された条件下でさえ、 (上の写真のような) ヒルがその刺激に対して毎回どのように反応するかを予測する方法はないようでした。

 

この明らかな非決定性を、より複雑な振る舞いや状況にまで拡大すると、「ハーバードの動物行動学の法則」として知られるものに結実します。すなわち、「注意深く制御された実験環境下において、動物は、自分がしたいように勝手に行動する」。

ここまでは順調です

しかし、反対に自由意志は単なる幻想にすぎないことを示しているように見える実験についてはどうでしょうか?

 

この種の有名な実験はかなり多くありますが、ミッチェルの専門的な意見では、それらはそのようなことを全く示していません。

 

例えば、ベンジャミン・リベットによる1983年の今や有名な実験では、被験者が自分の手を動かそうと意識的に選択するほんの一瞬に、脳内に「準備電位」と呼ばれる信号が現れることが示されました。多くの人は、これを自由意志が幻想にすぎないという決定的な証拠だと受け取ってきました。私たちが自由に選択していると思っている瞬間、脳は実際には事前に決定を下しているというわけです。

 

ミッチェルは、この解釈を「控えめに言っても、激烈な過剰解釈である」と書いています。

 

それは、実験のデザインによって、自由意志の問題が実質的に無関係になっているからである。参加者は、研究に参加し、研究者の指示に従うことに同意した時点で、能動的かつ意図的な決定を下している。それらの指示は、気まぐれに行動するよう明示的に伝えていた。すなわち、「いつ行動するかについて事前に計画したり集中したりすることなく、行動するという衝動がいつでも自然に現れるに任せる」というものだ。彼らにとって、ある時点で他の時点よりも手を動かしたいと思う理由は何もなかった。なぜなら、何の利害関係もなかったからだ。それで、彼らは実際に気まぐれに行動したように見える。すなわち、神経活動に備わっているランダムな揺らぎを利用することで、脳内の無意識の過程に決定させ (るように決定し) たのである。

 

これは、アーロン・シュルガー率いる別の神経科学者のグループが、オリジナルの実験データを分析して結論したことでもあります。すなわち、被験者は (もちろん本能的に) 特定のニューロン活動の電位レベルを設定しており、脳内のランダムな揺らぎがそのレベルに達したときに、規定の行動をとることに決めていたのです。

 

これで、データに対して2つのもっともらしい解釈が存在することになります。

では、どちらが真実でしょうか?

ウリ・マオーズとリアド・ムドリックが率いる別の実験では、これら2つの可能性を区別しようと試みました。研究者たちは、被験者の半分には重大な結果を伴わない決定を、もう半分には被験者にとって気になる結果を伴う決定をさせました。案の定、被験者が取るに足らない決定を下したときには、リベットの実験と同様に決定に先立って準備電位が検出されました。しかし、決定が重要である場合には、準備電位は検出されなかったのです。

 

「全体として見れば」とミッチェルは書いています。「リベットの実験は自由意志の問題とはほとんど関連性がない。それらは、準備電位が観察されないような慎重な決定については何も語っていない。むしろ彼らは、第一に、脳内の神経活動が完全に決定論的ではないこと、第二に、生物は生来のランダム性を利用して、適宜任意の決定を下すことを選択できるということを確証している」。

 

「自由」については以上です。明日、ミッチェルが「意志」について述べていることを検証します。

注記

  1. 例えば、ミッチェルは、原核生物から真核生物への転換には共生が必要であったかもしれないという、現在では古典的な見解に言及しています。 ↩︎