Japanese Translation of "Science and Culture Today"

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続・進化が私たちに自由意志を与えたのか?

This is the Japanese translation of this site.

 

ダニエル・ウィット

2025/3/5

 

これは神経科学者ケビン・ミッチェル博士の著書『Free Agents: How Evolution Gave Us Free Will』の書評の続きです。第1部についてはこちらをご覧ください。今回も、議論の筋道を整理するために、この本の副題に沿って順を追って見ていきたいと思います。

「意志」

ミッチェル博士の著書が、決定論の主張に対して「自由」の現実性をどのようにして首尾よく擁護しているかはすでに見てきました。しかし、これだけで仕事が完了するわけではありません。結局、「自由意志」において「自由」は半分に過ぎないからです。私たちは、単に脳内のニューロンがランダムに発火することについて語ろうとしているわけではありません。

 

ミッチェルは、ランダム性のみで自由意志が構成されるわけではないことを認めています。むしろ彼は、分子レベルでの量子的なランダム性によって、私たちの脳にはある程度の「因果的緩み」(基本的には融通の利く余地) が存在し、これが自由意志への扉を開くのだと主張します。

 

なるほど、扉は開いています。しかし、そこから何が入ってくるのでしょうか?

 

ミッチェル博士は、自分が超自然的なもの、「不気味な (spooky)」もの、あるいは神秘的なものについて語っているのではないことを非常に明確にしています。魂を引き合いに出しているわけでもありません。物理学や化学に内在するランダム性によって、脳という物理的機械が、完全に事前決定されたのではない方法で振る舞い、その進化上の目的を果たすことが可能になると言っているのです。

 

そこで私たちが問いかけなければならないのは、「意志はどこにあるのか?」ということです。

 

この論議は循環する危険があります。ミッチェルは、意志に代わる2つの選択肢がランダム性と決定論、すなわち唯物論者が好む古典的な「偶然と必然」であることを理解しています。決定論を好んで意志を軽視することを望む人々に対して、ミッチェルは、現代物理学によれば世界は厳密に決定論的ではなく、量子的なランダム性が存在することを指摘します。また、ランダム性を好んで意志を軽視することを望むる人々に対しては、生物は完全にランダムな方法で振る舞うわけではなく、私たちの脳はランダム性を導き制限するようにあらかじめ構成されているのだと指摘します。さらに、彼が導入した新たな要因も、究極的には決定論的ではないかと指摘する人々に対しては、システム内にはやはりある程度のランダム性が存在するため、それらは決定論的ではないと答えます・・・。

 

この議論は永遠に続く可能性があります。なぜなら、ミッチェルは偶然と必然以外の本質的な要素をどこにも導入していないからです。自然主義的な世界観は偶然と必然以外のものを許容しないため、彼にそれは不可能なのです。ただし、偶然と必然の混合に従って行動する生物は、私たちが「自由な主体 (フリー・エージェント)」について語る際に意味するものではありません。

無視された選択肢

もう一つの選択肢があります。そのパラダイム全体を廃棄してもいいのです。偶然と必然の「他」に何かがあると想像するのです。そしてその何かとは・・・そう、「意志」です。

 

デカルトを飛び越えて、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス1まで一気にさかのぼり、意志とは単に意志であり、それ以上言えることは何もない、と言うのはどうでしょうか?

 

これは言い逃れのように聞こえるに違いありません。しかし (ドゥンス・スコトゥスが指摘したように)、最終的には何らかの事柄についてそのような表明を行わなければならず、さもないと次々と原因を永遠に提示し続け、無限後退に陥ってしまいます。最終的には、現実の構造において立ち止まらなければなりません。それがどこであろうともです。宇宙の最も根本的な構造が何であれ、それを他の言葉で定義することはできません。なぜなら、それ自体が他の全ての定義を包含していなければならないからです。したがって、昔ながらの唯物論者が「単なる物質」や「力」、あるいは恐らく「物理法則」を還元不可能な出発点とするのと同じように、自由意志についていわゆる「プラトン的実在論」の見解を持つ人々は、「意志」とは因果の根本的なタイプ、すなわちこれ以上分解できない現実の基本構成要素であると主張するのです。

 

この結論は、単なる内省から導き出されます。すなわち、私たちは、偶然と決定論だけが物事の起こり得る唯一の方法であるとは感じていません。私たちは、私たちが主体として行動するときに体現する、第3の基本的な因果のタイプが存在すると感じているのです。

 

多くの堅物な科学者はこのような証拠を退けるかもしれませんが、ミッチェルはそうしないのではないかと思います。彼は本書の中で、自由意志のリアリティは「私たちの生活における最も基本的な現象学」であるため、それについての直接的な知識は、私たちが「科学的アプローチの哲学的基盤への疑問」を投げかけるのに十分なはずだと述べています。では、実際にそうしてみましょう。私たちが何かをしようと決意するとき、私たちは単に偶然と必然のみに従って行動しているとは感じません。私たちは、別のタイプの因果関係が働いていることを (恐らくは直接的に) 認識しています。その率直な観察的証拠こそが、私たちに「意志」があると考えさせる理由なのです。(そもそも世界に「意志」という可能性が存在しなかったとしたら、私たちがそれを思い描くことさえどのようにして可能になるのか、想像するのは困難です。) したがって、ミッチェルが意志の自然主義的なモデルを (勇敢にも) 構築しようとするとき、彼はそもそもこの議論全体の動機となった、意志に関する共通の経験から離れていってしまっているのです。

意志の唯物論的モデル?

もしミッチェルがこれを読んだら、意志や主体性は純粋に物理主義的でありながらも非還元主義的な用語で説明できるということを理解しておらず、的外れだと言うのではないかと思います。私は的外れだとは思いません。むしろ、ミッチェルは唯物論の仮定から出発しているため、自由意志に関する彼の説明は非唯物論的な選択肢の強みを考慮に入れることができず、悪いパラダイムにおける最善の選択肢に過ぎない説明に甘んじているのだと思います。私の感覚では、彼は自分のモデルにおける「意志」の真の欠如を、「意志」に関する様々な説明により、手品のように (両立論者が「自由」についてそうしたと彼が非難したように) 隠蔽しています。その説明は、最終的には意志「以外」のほぼ全てを説明しているように思えます。

 

まず、彼は生物がランダムではなく「目的を持って」行動するという事実を重視しています。しかし、「目的を持つこと」は「意志を持つこと」と同じではありません。びっくり箱には目的がありますが、その動作に意志があるとは感じられません (そう感じた瞬間に、神父を呼ぶことになるでしょう)。次に彼は、生物がそれ自身「のために」、かつそれ自身「の手段によって」存在するカント的全体であり、したがって外部的ではなく内部的な目的性を持っているという事実を持ち出すことで、この問題を解決しようとします。なるほど、これによって「私たちには自由意志がある」という際の、定義上首尾一貫した「私たち」を提供することはできるかもしれません。しかし、これでもまだ「意志」は提供されません。選択は単に空間においてではなく時間をかけて行われるとか、ボトムアップの因果関係ではなくトップダウンの因果関係が私たちの意思決定を導くという彼の論議についても同様です。それらはすべて真実であり、重要でさえあるかもしれませんが、「意志」を提供するものではありません。少なくとも、その言葉の意味を、そもそも議論の始まりとなった概念とは異なるものに変えてしまわない限りは。

 

私の言いたいことを理解するために、誰かから1000枚の黒い小さなタイルを渡され、「これらを赤い形に並べてみてください」と頼まれたと想像してみてください。実際に試すまでもなく (また、タイルがどのように配置され得るかをすべて想像できなくても)、それが不可能であることはわかるはずです。なぜなら、単純にあなたには「赤」についての直接的で経験的な知識があり、それが形状ではなく色であることを知っているからです2。これは「意志」にも当てはまります。人間の脳における活動の可能なパターンを全て知らなくても、それらが決して「意志」をもたらすことはないとわかります。なぜなら、意志は意志であり、活動のパターンではないからです。これは定義上の論議からではなく、意志に関する直接的で経験的な知識から知っていることです。

 

これこそが、主観的または「現象学的」な経験を唯物論的な用語で説明できるかどうかについて、科学者や心の哲学者が堂々巡りをし続ける原因となっている問題です。例えば、痛みの神経学的基礎について一日中語ることはできますが、どこかの時点で (意識的に、あるいは無意識的に)、「・・・そして、あなたは痛みを感じるのです」とそっと挿入しなければなりません。そうしなければ、説明しようと表向きはしていた対象について語るのをやめ、別の話題 (ニューロンの発火パターンなど) へと流れてしまっていることになります。

 

ミッチェルはこの問題、いわゆる「意識のハードプロブレム」を認識しています。彼は、理論的には私たちと同じように振る舞いながらも、内部には何も「起こっていない」ロボットが存在し得ることを認めています。そして見事なまでの謙虚さをもって、「そのような意識的な精神体験がどのようにして生じるのかについては、率直に言って、私たちは知らない」と認めています。彼が認識できていないのは、これと同じ哲学的な挑戦が自由意志にも適用できるということです。どのような科学的説明においても、どこかの時点で腹をくくって「・・・そして生物は何かをしようと『意志する』」と言わなければならず、そうしなければ議論を始める理由であった経験的な「意志」とのつながりを見失ってしまうのです。ミッチェルは腹をくくっておらず、そのため彼の「意志」は、日常的に使われている「意志」とは大きく異なるものになってしまっています。

 

優れた科学者として、ミッチェルは意志に関するすべてのプラトン主義的または実在論的なモデルを「神秘主義的」あるいは「不気味なもの」として退けています。それはそれで結構です。しかし、ほとんどの人は内省を通じて、自分が実際にこの種の意志を持っていると結論しており、自由意志についてのミッチェルの説明がそのような人々を動かす可能性は低いでしょう3

ゲートウェイドラッグ

しかし、恐らくそうする意図はなかったのでしょう。この本に唯物論の擁護の構成を期待するのは、ダーウィニズムの擁護を期待するのが不当であったのと同様に、不当なことかもしれません。この本が主に関与しているのは、科学的自然主義という広範な枠組みの中での論争を解決することであり、その枠組み自体の擁護ではないからです。それでも、もしミッチェルがその枠組みの外にある解決策を指し示すかのような論議を用いるのであれば、当然、外にいる人々は外に出てくるよう彼に手招きすることになるでしょう。

 

それを踏まえた上で、私は還元主義的・唯物論的なパラダイムに行き詰まっている全ての人に、彼の本を「入門薬物(ゲートウェイドラッグ)」としてお勧めします。インテリジェントデザインを却下する自然主義者であるとして、ミッチェル博士を軽視することはできません。還元主義と決定論の両方に対する彼の鋭い批判は、極端に頑迷な唯物論者を除く全ての人を揺さぶる可能性が高いでしょう。なぜなら、結局のところ、彼は正しいからです。自由意志への扉を閉ざしたかのように見えた、かつての還元主義的・決定論的パラダイムを、現在の科学的証拠から導出することは単純に不可能です。扉は他の原因に対して開かれています。ミッチェル自身が閉め出しておきたいと望むような原因に対してさえも。

注釈

  1. こちらをご覧ください: John Duns Scotus, “Questions on Aristotle’s Metaphysics IX, Q.15,” in Duns Scotus on the Will and Morality, Allan B. Wolter, O.F.M., ed. and trans (Washington: Catholic University of America Press, 1986). ↩︎
  2. ミッチェルは、バートランド・ラッセルの言葉を言い換えて、「色は世界に存在すらしない。それは生物が、物体を互いに区別するのに役立つために、本質的に任意のカテゴリーを創造した結果である」と断言する際に、暗黙のうちにこのことを認めています。外の世界に色が存在しないと、なぜ彼は確信できるのでしょうか。単に光の波長は色ではなく、波長だからです。ただし、同じことは脳内のニューロンの複雑な発火パターンについても言えます。それら自体は、波長が色でないのと同様に、色ではないのです。↩︎
  3. ちなみにこのグループには、プラトン主義的な列車に飛び乗った一部の科学者も含まれています。最近では、ハーバード大学およびタフツ大学の生物学者マイケル・レヴィンが含まれます。↩︎