Japanese Translation of "Science and Culture Today"

https://scienceandculture.com/ の記事を日本語に翻訳します。

マイケル・レヴィン: 物理主義への別れ

This is the Japanese translation of this site.

 

ダニエル・ウィット

2025/2/28

 

科学読み物には、ある一定のパターンが見られます。科学者が、自身でも実に型破りである、あるいはパラダイムを揺るがすような主張を展開しようとする際、文章のどこかで必ず立ち止まり、自分はもちろん、決して「一線」を越えようとしているわけではないことを釈明するのです。彼は (もちろん!) 物質界の外側に何かが存在すると言っているわけではありません。

 

それは現代科学における最大の「聖なる牛 (sacred cow)」かもしれません。物質こそが存在する全てであるという考え、つまり「唯物論」です。より正確には、物理主義、すなわち「物理的世界」こそが存在する全てであるという考えのことです。(この新しい用語は、物理学において「物質」だけが存在する全てではないことが火を見るよりも明らかになった後に作り出されました。「物理的世界」という概念は驚くほど柔軟であることが証明されたため、物理主義は唯物論よりも維持しやすくなっています。)

 

何であろうと突飛で大胆な事柄を信じるのは自由です。精神、自由意志、目的論や合目的性を信じてもいいですし、「生気の活力」について語ることさえ可能です。しかし結局のところ、唯物論者としての義務を果たし、何か・・・その・・・不気味なものを持ち出しているわけではないことを明らかにしなければなりません1。物理的世界こそが、現在も、これまでも、そしてこれからも存在する全てであると理解しているということです2

 

しかし、マイケル・レヴィンは、そうした態度とは決別しました。

 

レヴィンはタフツ大学 (他でもない無神論者ダニエル・デネットの旧学術的拠点) とハーバード大学に籍を置く生物学教授であり、必ずしも唯物論に対する反乱の先鋒に立つと予想される人物ではありません。しかし、彼は最新の論文 (「Ingressing Minds: Casual Patterns Beyond Genetics and Environment in Natural, Synthetic, and Hybrid Embodiments」、現在プレプリント公開中[訳注: PDFはこちらにあります]) において、唯物論的パラダイムを明示的かつ猛烈に拒絶する立ち位置を鮮明にしました。

生物学における非機械論的現象

レヴィンは、生物が一般に考えられているようにDNAにコードされた青写真の機械的な展開に従って発達するわけではないことを示す、最近明らかになりつつある生物学上の証拠を指摘することから議論を始めます。もちろんDNAには重要な情報が含まれています。しかし、生物はいわば目標を念頭に置いて発達しているように見え、移ろいやすく本質的に予測不能な状況に直面しても、その目標に到達することができるのです。これは重要な意味を持ちます。なぜなら、状況やそれに適応するために必要な発達経路が予測不能であるならば、それらの経路をあらかじめ生物にプログラムしておくことは不可能だからです。それらはその場で「発明」されなければならないのです。

 

いくつか例を挙げましょう。サンショウウオの肢を切断すると、どこで切断したかに関わらず、元と全く同じ新しい肢が再生されます。オタマジャクシの頭部を「バラバラ」に入れ替えても、それらは自ら再配置され、正常なカエルへと成長します。発達中の胚は、自身を構成する細胞の数そのものが著しく変化しても適応できます。 (状況によっては、胚の構造を形成するために細胞が一つしか利用できない場合、その細胞は自らを巻き込んで望ましい構造を形成します! 工学的な問題を解決するために、発達のメカニズム全体が変化するのです。) 発達中の生物は、遺伝的な問題さえも回避することができます。遺伝子だけが発達を誘導していると考えるのであれば、これは大いに驚嘆すべきことです。実際、扁形動物のプラナリアは遺伝的な変更を一切加えずに、他種の扁形動物の頭を生やすように操作することさえ可能なのです。

 

レヴィンは次のように書いています。

 

これは、高次の解剖学的仕様を実装するために、必要に応じて遺伝的アフォーダンスを創造的に利用する能力の例示である。言い換えれば、この世に誕生しようとしているイモリの胚は、外部環境の変幻自在さを予測できないだけでなく、さらに悪いことに、自身のパーツさえも信頼できないのだ。正しいコピー数の遺伝子や、正しい数やサイズの細胞があるという当てはない。未知の状況下で、手持ちの道具を使って仕事を完遂しなければならない。では、何が当てにできるのだろうか? それは、悠久の進化を経て磨き上げられた「主体的素材 (agential material)」の絶え間ない能力である。これは (環境に対する固定的な解決策ではなく) 問題解決を行う行為者を構築する。そして、その活動を導く北極星、すなわち辿り着くべき「形態空間 (morphospace)」におけるアトラクターを当てにするのだ。[本記事全体を通して引用文献は省略]

プラトン的パラダイム

純粋に物理的な説明を探求する代わりに、レヴィンはこれらの証拠が全く別の何かを指し示していると論じています。

 

彼は、「精神と生命への因果的入力の一部が物理的世界の外側に起源を持つという、急進的なプラトン主義的見解」を提唱しています。

 

プラトン主義は、哲学に関する限り、唯物論から最も遠いところにあります。それは唯物論的パラダイムを根本から覆し、全てが物理的ではないというだけでなく、全てが個物でもないと言っています。普遍的な「イデア (ideals)」は、世界における個物である事物と同じほど現実のもの (実際、現実においてより根源的) です。例えば、プラトン主義的な視点では、大文字の「青 (Blue)」は、その外にあるいかなる個物の青い物体とは別個に、それ自体で存在します。

 

この考えは必ずしも直感的ではないとはいえ、なぜそうでなければならないのかという論議は理解しやすいものです。個物の「青い」ものが存在するためには、そもそも「青であること」という選択肢があるべきだからです。3

 

レヴィンは、高名な物理学者 (ヴェルナー・ハイゼンベルク、マックス・テグマーク、デイヴィッド・ドイッチュ、ジョージ・F・R・エリス、ロジャー・ペンローズなど) や、多数のコンピュータ科学者、数学者がプラトン主義者であったことを指摘しています。言い換えれば、それは決して荒唐無稽な意見ではないのです。(レヴィンは言及していませんが、チューリッヒ大学の進化生物学者アンドレアス・ワグナー、『Discovery Institute』のリチャード・スタンバーグ、先日亡くなった古生物学者ギュンター・ベヒリーなど、現代の多くの生物学者もプラトン主義を表明しています。)

 

しかし、これらの科学者の大部分を唯物論の堅固な教義から引き離したのは、青という色ではありませんでした。最も一般的なプラトン的誘惑は、数学のようです。世界が数学的原理に従って動いていることを否定するのは困難で、それらの原理がいかにして物理的になり得るかを説明することも困難です。レヴィンは、説明として非物理的な数学的実在を持ち出した時点で、すでに物理主義的パラダイムを去っているのだと論じます。ただし、そうした実在を持ち出さずに生物学の多くを説明することは不可能です。生物は精緻なパターンや構造へと発達しますが、これらのパターンや構造は物理的世界から来ているのではなく、数学的なものなのです。

 

レヴィンは、これらの美しい構造が数学的世界に独自に存在するように見えるという事実に非常に心酔しており、彼の論議の多くは、揺るぎない数学的規則が物理的なパターンに対して説明価値を持つという事実に依拠しています。(例えば) 単にフラクタルのパターンが生体内に見られるというだけではありません。そのフラクタルの数学的性質に踏み込むことなしに、なぜその生物がそのように発達したのかを有意義な仕方で説明することはできないのです。そして、フラクタルの性質は本質的に非物理的なものです。

 

多くの科学者は複雑な形而上学的な論議は気にせず、役に立つものは使い、そうでないものは捨てるという経験則的な (heuristic) アプローチを好むため、この点はレヴィンの主張にとって重要です。私の最初の有機化学の教授が語ったように、「科学とは真実を求めるものではない。機能する (works) かどうかなのだ」というわけです。この考え方は唯物論的パラダイムにとって都合がいいものです。なぜなら、科学が「機能する」ものとはほとんどが物質界の操作だからです。(もし非物質的な世界を操作し始めれば、科学者ではなく数学者や哲学者に分類されてしまいます。) しかしレヴィンは、純然たるプラグマティシズムに基づいていても、プラトン的イデアには多くの利点があると強く主張しています。科学者たちは、意識せずとも常にそれらを利用しています。そしてレヴィンは、形而上学的な世界の侵入を不名誉なこととして扱うのをやめ、物理的なものと非物理的なものを統合する方法で研究すれば、その先に生物学的発見の展望が拓けると説いています。

単なる「創発」ではない

レヴィンは「何が機能するか」を強調していますが、同時に「何が真実か」にも関心を抱いています。そして彼は形而上学的な原理を保持しています。具体的には、彼の言うプラトン的形態が、物質界の単なる「創発現象」へと還元されることはあり得ないと断言しているのです。

 

第一に、彼は「創発」という言葉を持ち出すことが、往々にしてある現象を実際に説明するという責任から逃れるためのごまかしになり得ると指摘しています。彼の言葉では、それは「進歩を制限する神秘的 (ミステリアン) なアプローチ」です。創発主義者たちは非物理主義的な説明をしばしば「神秘主義的」と嘲笑するため、これは巧妙な修辞的戦略といえます。神秘主義とは、結局のところ見る者の主観次第なのでしょう。

 

それ以上に、レヴィンは生物学において創発は不十分であると主張しています。もちろん創発はいくつかのものを記述しますが、生命の持つ多くの複雑な特徴は、単純に基本的な物理的部分から自然に出現するわけではないのです。

 

レヴィンは次のように書いています。

 

生物学的パターンの極めて重要な側面は、それらがしばしば、単に機械的な様式で淡々と進行する過程の結果ではないことである。部分は物理学の様々な側面によって記述可能かもしれないが、生物学的全体には、新規の条件、介入、環境および自身の部分の変化などがあるにもかかわらず、特定のパターンを達成する能力がある。事実上、これらのパターンは、適応行動の従来の例における生物の三次元空間のナビゲーションと同様の、解剖学的、転写的、生理学的、代謝的、その他の空間における知的 (文脈依存的、創造的、問題解決的) なナビゲーションの目標という役割を果たす。これは、単純な規則が複雑な成果物を導出する能力に焦点を当てた、今日支配的な複雑性/創発のパラダイムとは一線を画す。そのような「創発」は確かに生物学において起こるが、それ自体では形態形成の最も興味深い側面を説明するには不十分なのだ。

 

レヴィンによれば、生物学に存在する注目すべき複雑な構造は、単なる自然選択の必然的な結果ではありません。それらは物理学の必然的な結果ですらありません。むしろ、それらは非物理的としか表現できない論理的・数学的な現実に基づいています。「これら全ては、物理学からの事実に依存しない世界についての特定の事実である。それらは数学の他の側面と関連付けることはできるが、物理学のいかなる事実にも還元されない一連の知見を形成している」。ビッグバンの全ての定数や初期条件を変更したとしても、これらのプラトン的構造に影響はないとレヴィンは指摘しています。「物理的世界には、それらを変更するための操作つまみとして使用できるものは何一つ存在しない」。

非物質的な精神か?

この全てが急進的に思える人もいるかもしれませんが、レヴィンの議論はまだ始まったばかりです。彼は、プラトン的空間が静的な抽象的対象のみを含まなければならないという、「先験的な (a priori)」理由は存在しないと論じています。実際、一部のプラトン的現実 (絶えず (真偽が) 変化する「この文章は偽である」というパラドックスなど) は、まさにその本質において常に変動しているように見えます。そして、もしプラトン的空間が移動かつ変動する対象を含み得るのであれば、そこに・・・精神を含むことはできないのでしょうか?

 

「プラトン的空間に、ある程度知的で活動的なパターンが含まれることはあり得ないだろうか・・・?」とレヴィンは問いかけています。「生物学にとって重要なプラトン的パターンのいくつかが、それ自体ある程度知的だとしたらどうだろうか?」

 

これは興味深い概念です。残念ながら、複雑性や移動能力を持つことが、どのようにして主観的な自覚を可能にするのかについて、レヴィンは説明していません。この点において、彼の理論は、同様の飛躍をする傾向にある物理主義的な精神の理論と何ら変わりはありません。

しかし、それはどのように機能するのか?

こうした説明を全て受けた後のこの時点では、何かが欠けているように感じるかもしれません。

 

なるほど確かに、生物学的生命は抽象的な原理に従って動作しています。
そして確かに、これらの原理は実在しており、物理的世界には還元できないものかもしれません。
さらに、物理学や化学、生物学の法則は、生命がなぜこれらの抽象的な目標に手を伸ばすのかを説明するには不十分なのでしょう。
しかしそれなら、なぜ生命はこれらの原理に従うのですか? 何が生物を成長させ、非物質的な「北極星」へと発達させるのでしょうか?

 

彼の名誉のために言うと、レヴィンも彼がこの質問に答えていないことを自覚しています。これも彼の名誉のために言うと、答えられるふりもしていません。

 

「物理的対象が空間からパターンを引き出すという、『構築すればやってくる』モデルを超えた、『力』が存在するのだろうか?」と彼は問いかけています。「プラトン的空間の内容は、それらが侵入的思考や原型 (アーキタイプ)、芸術作品として世界に出現するように何らかの方法で促す『陽圧』の下にあるではないか?それらはその空間へのインターフェースを通じて投影され、物質が自分を活気づけるパターンを呼び出すのと同様に、本質的に物質に『憑依』させようと駆り立てる対称的な力学によって外側へ押し出されるのだろうか?」

 

レヴィンにも分かってはいません。しかし彼は、科学者がその解明に真剣に取り組む必要があると考えています。私もそれには反対できません。

これをどう捉えるべきか? 

レヴィンの理論は確かに興奮を誘いますが、私としては行き過ぎないようにしたいです。個人的には (疑念がないわけではありません)、レヴィンは数学的領域の豊かさに関して自説を誇張しすぎているのではないかと考えています。

 

例えば、基本的な数学的真理である「2+2=4」を考えてみましょう。人間がこの真理を発明したのではないことは明らかなので、それは「発見された」ものであり、プラトン的現実における揺るぎない現実の「構造」であると言えるかもしれません。しかし、別の角度から見れば、この構造は言語の産物であり、数字について語る方法の副産物であることに気づくでしょう。「2」は実際には「1と1」を意味し、「足す」は「と (and)」を意味します。したがって「2足す2」は実際には「1と1と1と1」を意味するにすぎず、それはたまたま「4」の定義でもあります。ゆえに、一見「プラトン的構造」に見えるものは、「1と1と1と11と1と1と1である」という事実に帰着し、それは自明な事柄となります。私の疑念は、レヴィンが心酔しているより複雑な数学的構造も全て、このように分解できるのではないかということです。

 

しかし、それはレヴィンのより深い論点を否定するものではありません。たとえこれらのプラトン的構造を解体し、それぞれが非常に単純なものに帰着すると分かったとしても、プラトン的構造は依然としてそこに存在しています。上記の例において、私たちが話を縮小したり言い訳したりいくら試みた後でも、依然として一つの (非物理的な!) 現実が残されます。すなわち「数性 (numerosity)」、すなわち「量を持つ」という性質です。それを取り除くことは容易ではありません。同様に、幾何学における全てのプラトン的構造は単なる「空間性」へと縮小するかもしれませんが、依然として空間性という現実自体への対峙が残されることでしょう。

 

言い換えると、宇宙が単に空虚なデカルト空間の単純な格子に鎮座する物質にすぎないと言いたいのだとしても、その格子がどこから来たのかをやはり説明しなければなりません。冷たく死んだ1つの物質の塊が、別の冷たく死んだ物質の塊の隣に位置するためには、「隣」という言葉が何らかの意味を持たなければなりません。

 

そして、一度ある非物質的な性質に門戸を開いてしまえば、もはや単なる原則論によって他の性質を排除することはできなくなります。それらを真剣に受け止めなければなりません。それらを1つずつ検討し、それらがプラトン的に存在するのか、それとも単なる言葉に帰着するのかを決定しなければなりません。もし「数性」や「空間性」が実在し得るのであれば、そしてレヴィンが正しく、これら2つの性質のヒューリスティックな価値ゆえに、それらを非実在として退けるのが極めて困難であるならば、他の無形の性質もそうではありませんか?例えば、何かが他の何かを経験するという性質である「自覚」、言い換えれば「精神」はどうですか?その意味では、「痛み」はどうですか?「愛」はどうでしょうか?

 

ラクダの鼻はテントに入っているのです (一度許せばなし崩しに広がっていくということ)。

 

そして多分それが、21世紀の大半の科学者が、レヴィンの踏み出した大胆かつ小さな一歩を踏み出すことを不快に感じる理由なのでしょう。「不気味な」ものは・・・やはり、不気味なのです。

注釈

  1. 「不気味な (spooky)」という用語は、自然主義者が自らの哲学によってどの実体のカテゴリーが排除されるのかを正確に説明しようとする際に登場する傾向があります。例えば、『スタンフォード哲学百科事典』は存在論的自然主義を、「現実には「『超自然的』またはその他の『不気味な』種類の実体のための場所はない」という見解であると定義しています。
  2. もちろん、マルチバースにおける他の世界や、マルチバースが生じると仮定されている量子構造は例外です。
  3. そして、もし「青」は光の波長など他の何らかのものの創発的特性にすぎないと論じるなら、それは単に問いがそれら他のものへと遡るだけです。もしそれら先行するものに性質があるなら、何の性質も持たないものについて語ることは (アリストテレスが試みたとはいえ) 実際には不可能ですが、それらの性質はまず宇宙における可能性、あるいは「設定」として存在していなければなりません。光波のようなものに「長さ」を持たせているのは、宇宙の何なのでしょうか?「長さ」とは何なのでしょうか?それがプラトン主義の根本的な論議なのです。