Japanese Translation of "Science and Culture Today"

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進化理論家が言葉遊びをする: どこまで通用するか見てみよう

This is the Japanese translation of this site.

 

ダニエル・ウィット

2024/8/15

 

最近の論文1で、ベルギーのサイバネティシストであり進化理論家であるフランシス・ヘイリゲンは、興味深い観察を述べています。彼は、進化理論を改訂しようとする最近の最も影響力のある試みが全て、関係性 (relationality) とエージェンシー (agency) という2つのアイディアに基づいていると指摘しています。

 

自己組織化、システム生物学、共進化、シナジー、共生発生、ニッチ構築、テレオノミー、進化発生学、多段階選択、あるいは主要な進化遷移理論であろうと、それらは全て、(a) 自律的な作用と(b) 単なる部分の総和ではないシステム内部での相互作用に頼っています。

 

ヘイリゲンはこれから、(最初は) 非常に急進的に思える結論を引き出しています。それは恐らく、「関係性エージェンシー」が生物学、ひいては現実全体の根源的な基盤とみなされるべきだというものです。

 

「簡潔に言えば」とヘイリゲンは、「これは、世界を外的な力に従属する独立した客体の集合としてではなく、相互作用するエージェンシーのネットワークとみなすアプローチである」と書いています。

 

言い換えれば、宇宙の基本的な構成要素は、ではなく作用 (そして具体的には相互作用) であるということです。

 

「パルメニデスに異を唱えて、変化 (「生成」) が永続性 (「存在」) よりも、粒子から星に至るあらゆるレベルにおいて根源的であると結論されるかもしれない」とヘイリゲンは書いています。

 

彼は、プラトンやアリストテレスにまで遡る客体を基盤とする世界観を放棄する必要があることを科学が示していると主張します。哲学者デイヴィッド・エイブラムに追随して、岩や川さえも霊性を持つ主体とみなされていた、狩猟採集社会のアニミズム的世界観により近いものへと回帰する必要があると論じています。

 

これがやや超自然的、あるいは神秘的にさえ思えるとしても、そのような印象を助長しているのはヘイリゲン自身です。彼は、読者が彼の命題を、現代科学と哲学のまさに根底を批判し、聖なる牛 (伝統的な聖域) やギリシャ哲学から受け継がれた思想の根源的構造に挑戦し、「存在そのもの」に疑問を投げかける・・・といった、地を揺るがすほど急進的なものとみなすことを望んでいるようです。

一体どういう意味なのか?

ヘイリゲンの命題が、一見したのと同じくらい興味深いものであればと願うばかりです。惜しいところまでは行っています。もう少し踏み込んでくれれば、そうなり得たかもしれません。しかし詰まるところ、ヘイリゲンはアリストテレスは言うに及ばず、リチャード・ドーキンスにさえも純粋に挑戦するつもりはないようです。遺憾ながら、ヘイリゲンの文章を読むと、いわゆる「計算された偶像破壊」― 偶像を劇的に打ち砕きつつも、本当に厄介なことになる可能性のあるものは避ける ― という強い印象を受けます。もちろん、これは真の偶像破壊ではありません。

 

まず、ヘイリゲンが「エージェンシー」について語る際、彼は自由意志、ひいては精神を示唆するような、堅牢な哲学的定義を使用していません。ヘイリゲンにとって「エージェンシー」とは、単にある状態よりも別の状態へと向かう生得的な傾向を意味していることが分かります。すると、川がエージェンシーを持つのは、海へと流れる傾向があるからです。岩がエージェンシーを持つのは、一つの塊としてまとまる傾向があるからです。生物がエージェンシーを持つのは、動き、栄養を摂取し、繁殖する傾向があるからです。

 

なるほど、生物、川、さらには岩でさえも、ある状態に向かう傾向がないと論じるのは難しいでしょう。それはまた、全く面白みのない命題でもあります。アリストテレスでさえ異論を唱えるとは思えません。

 

ヘイリゲンが用語の定義に入ると、彼がほとんど何も言っていないことが明らかになります。例えば、関係性エージェンシーの概念を理解する最も単純な方法は、条件付き行動規則であると彼は言っています。「ある条件Xが与えられると、新しい条件Yを産出する行動が起こる」。「条件」とは何かを説明する際、その定義に「物」や「客体」を含めないようにするために、彼は言語学的曲芸を繰り広げなければなりません (それでは論点全体が倒れてしまうからです)。彼が言うには、「ここでの条件とは、その存在がその不在と区別できるあらゆる状況のことである」。

 

これは定義としては不十分です。「状況」と「条件」は同じことを意味しており、文の後半部分の回りくどい表現は基本的に何も言っていません。「ここでのとは、無とは区別できるあらゆる物として定義される」と言うようなものでしょう。それは中身のない空文です。トートロジーであり、トートロジー的にならざるを得ない理由は、ヘイリゲンが否認した「客体」がどこかで定義に忍び込まないことには、実際には何も言えないからです。そうすると、彼の論議は台無しになります。

 

もし彼がもっと急進的であろうとしたならば、(C. S. ルイスなら言ったであろう)「純粋な作用」や「運動そのもの」について語ることもできたでしょう。それは、プラトン的な空間に、特定の主体や客体から独立して存在し、私たちの宇宙が誕生したときに突然実体化した・・・というようなものです。

 

しかし、彼はそこまで急進的ではありません。ヘイリゲンは存在そのものという考えに挑戦することには前向きですが、唯物論に挑戦することには前向きではないようです。

「最も聖なる牛」

それは驚くようなことではありません。科学界でエリートの思想的指導者を目指すのであれば、「存在そのもの」に挑戦することには、唯物論に挑戦するほどには社会的・専門的なコストは伴わないのです。

 

それはもちろん、「存在そのもの」に挑戦しながら実際に何かを語るのは困難なので、「存在そのもの」への挑戦が全く脅威にならないからかもしれません。いずれにせよ、まず唯物論に疑問を投げかけるつもりがないのであれば、「存在そのもの」への挑戦は確かに無害になります。というのも、宇宙がなおも単なる物質とエネルギーと虚空に過ぎない限り、「存在」よりも「生成」の方が根源的だとして、一体誰がそれを気にするでしょうか?唯物論者の宇宙においては、どちらも存在しません。なぜなら、どちらも物質的ではないからです。唯物論者の宇宙では、「生成」も「存在」も単なる言葉であり、ヘイリゲンの区別も結局はそれだけのことです。つまり、相変わらずの自然主義的宇宙モデルを記述する、単なる言葉だということです。

 

ヘイリゲンは (どうやら) 心底からの科学的唯物論者であるため、旧来のモデルに対する彼の批判は、実際にそのモデルからの逸脱を表すに十分なほど踏み込んだものには決してなり得ません。私が理解する限りでは、彼は単に異なる用語の使用を主張しているに過ぎません。それで一例を挙げると、彼はドーキンスの進化の「利己的な遺伝子」モデルを拒絶することについて、盛んに声を上げています。しかし、彼の生物学についての具体的な主張のどれかに、ドーキンスが実際に同意しないとは想像し難いのです。実のところ、同意しないような点はそれほどないでしょう。

 

私が言える限りでは、ヘイリゲンが実際に何か (「何か新しいこと」ではなく、ただの何か) の主張に最も迫っているのは、彼が量子物理学における、粒子が安定した状態に収縮するためには観測されなければならないという事実のような、困惑させるような有名な発見のいくつかに言及する時でしょう。

 

これらは実際、かなり衝撃的な発見です。しかしヘイリゲンは、それらの発見の哲学的含意を深く掘り下げることは一切してはいません。彼はそれらを、「存在」よりも「変化」の方が現実にとってより根源的であることの証拠として挙げますが、なぜそうなるのかは明らかではありません。一つの点として、ヘイリゲンは、彼が挙げるまさにその実験において「存在」が実際に示唆されているという事実にも触れていません。観測者と粒子との間の相互作用が、粒子に安定な形状を与えるために必要だとしても、それでもなお、その過程の開始時には観測者と (未確定の) 粒子が存在しているのではないでしょうか?

 

実際、彼は、「存在」がまずなければ、一体何が変化するのか、というより深い問いには答えていません。(そして、「存在」の優位性に挑戦しようとするならば、それは答えるべき実に根源的な質問ではないでしょうか?)また、彼は、「変化」(あるいは「生成」) そのものが存在するのか、つまり存在を持つのか (そうするとまたしても「存在」が「変化」よりも根源的なものになってしまう)、という厄介な質問にも触れていません。

 

ヘイリゲンの論議に、もっと実質や明確さがないのは残念です。現代科学における宇宙についての支配的な見解が挑戦を受けるべきだという点で彼は正しいからです。しかし、それに真剣に挑戦するには、空間や物質、エネルギー以外のものを進んで信じる必要があります。精神、自由意志/エージェンシー、無形の性質、そして「存在」や「変化」、「運動」、「愛」といった非物理的な「イデア」・・・現在のモデルからの真に急進的な転換をもたらし得るのはその種の理論であって、このような「言葉遊び」ではありません。

独創性と真実

幸いなことに、ウィリアム・デムスキーのような、純粋に因習打破的な思想家も存在します。彼も「空間に座する物体」モデルを拒絶し、代替となる宇宙のモデルを構築しようと取り組んでいます。しかし、対照的に、これらの進化の修正主義者を自称する人々の多くは、本当は先鋭的に聞こえることの方に関心があるように見えます。そして、C. S. ルイスが指摘したように、通常はそれを優先しても、あなたを「先鋭的」にすらしないのです。

 

独創性ばかり気にしている人は独創的なものを創作することはできない。これに反して、ただ真実を (それがすでに何回語られたかなんていうことには少しも頓着せずに) 語るなら、人は十中九まで、自分では気がつかずに、独創的になっているのである。この原理は人生を上から下までつらぬいているのだ。


なぜそうなのでしょうか? 私が思うに、急進的であろう、重要であろう、あるいは革命的であろうとすることを気に掛けるということは、他人がどう思うかを気に掛けることだからです。そして、他人がどう思うかに焦点を当てる人は、愚か (あるいは時代遅れ、現実離れ、見当違い、滑稽、危険、退屈) に見えることを恐れるため、真に独創的なアイデアを持つことはできません。

 

他方で、他人の意見をあまり気にしない人々は、しばしば真に地を揺るがすようなアイデアに出くわし、非常に謙虚で控えめな方法でその発見を発表します。もしかしたら、近いうちに進化生物学で誰かがそうするかもしれません。

 

もしかしたら、すでにそうしているかもしれません。結局のところ、進化論を改訂しようとする主要な試みは全て、エージェンシーと関係性を伴うというヘイリゲンの (純粋に鋭い) 観察から得られる、より単純な教訓が存在します。それは、生き物はある行為者によってデザインされたので、単純にエージェンシーに頼ることなしに生命を理解することは不可能であるというものでしょう。そして、生き物が部分としてではなく、全体として計画されたので、単純に生命の要素は「関係的」である、つまり部分の総和以上であるというものでしょう。

 

しかし、その理論が花火と拍手で迎えられるとは期待しないでください。それは非常に不人気で、少しも「先鋭的」ではありません。

注釈

  1. Heylighen, F. P. (2023) Relational Agency: A New Ontology for Coevolving Systems. In: Corning, P. A., Kauffman, S. A., Noble, D., Shapiro, J. A., Vane-Wright, R. I. & Pross. A. (eds.) Evolution "On Purpose": Teleonomy in Living Systems. Cambridge, Massachusetts: The MIT Press.