Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

インテリジェントデザインに対する主な反論はなぜ誤りなのか

This is the Japanese translation of this site.

 

コーネリアス・ハンター
2022/2/7 16:19

 

チャールズ・ダーウィンの『種の起源』が最初に出版されてから35年後の1894年、ウィリアム・ベイトソンは、ダーウィンの理論は一度も証明されたことがなく、直接的な観察も不足しているが、それでも「いかなる代替仮説の形成も困難である」ことに強い支持を見い出したと書きました。現代の遺伝学の父である彼は、「どのような代替仮説も、今では合意により不合理と認識されている独立創造説が関わっている」と説明しました。

 

この一節の意義は、その非科学的で宗教的な断定にあるのではありません。このような形而上学は、昔も今も、進化の文献にはよくあることです。しかし、ベイトソンは異端者でした。彼は、種がどのように進化したとされるかについてのダーウィンの考えに激しく反対した多くの人々の一人でした。ダーウィン以来、進化の仕組みをめぐってこのような異論が出るのは珍しいことではありません。珍しいのは、形而上学をめぐる異論です。上の文章の意義は、進化の形而上学がいかに広く浸透していたかを明らかにしていることにあります。進化的思想には、仕組みの細部についての不一致を超えた、普遍的な正統信条があるのです。

重要な主張

『起源』の14の章のうちの第2章の最後から2番目の段落で、種を超えて観察される生物学的変異について50ページ以上にわたってかなり乾いた議論をした後に、チャールズ・ダーウィンは重要な主張をしました。彼はその章を要約していたのですが、何の前触れもなく全く新しい主張、すなわち、そこで記述されたかなり抽象的で不明瞭な事実は、「もし種が独立の創造物であるならば・・・全く説明できない」という主張をしました。

 

この時点で読者が疲れてしまったとしても仕方がないでしょう。おそらく、本文を拾い読みするか、この段落は要約なので、3章に進むために完全に読み飛ばすかしたでしょう。しかし、もしそうしたなら、ダーウィンが自分の新しい理論について述べた多くの強力な論議のうち、最初のものを見逃してしまいます。それらの強力な論議では、経験的な証拠が独立の創造を否定していると解釈しました。読者がこの論議の形式を理解することは大切です。というのも、ダーウィンが章を移るにつれてその論理はますます省略され、形而上学はますます不明瞭なままですが、その論議にとって決定的に重要なことに変わりはないのです。

 

1859年からの年月は、ダーウィンが夢にも思わなかったような新しい経験的発見をもたらしました。しかし、進化論の論議は変わっていません。ジェリー・コインが2010年に出版した『Why Evolution Is True』では、新旧の証拠を幅広く議論していますが、議論の形式は変わっていません。コインは繰り返し、証拠の示すところは独立の創造やデザインの下では意味をなさない、と主張しています。

根底にある宗教的前提

何世紀も前にダーウィンや初期の自然主義者が提示したものであれ、今日の進化論者が提示したものであれ、厳密に自然主義的な種の起源についての証拠や論議は強力であり、説得力があります。しかし、その論議の力は客観的な経験的分析からは来ていません。それは根底にある宗教的前提から来ています。

 

当然のことながらある読者は、ダーウィンが第1章と第2章で議論した生物学的変異が、「もし種が独立の創造物であるならば全く説明できない」のはなぜその通りなのか、なぜわかるのか、と尋ねるかもしれません。ダーウィンはこの重要な主張について、決して説明を与えません。そのような説明はどんなものでも、ダーウィンが用意していなかった形而上学的な根拠を必要としたでしょう。進化論者によりなされるこのような、また他の神学的な主張は、ただの断言でしかないのです。それらは非科学的で形而上学的な主張であるばかりでなく、それらを支持する形而上学的な根拠すら何もありません。

対立する理論への対処

このすべてに対して、進化論者は不当な批判だと主張します。彼らの理論に神学的な内容はなく、むしろ対立する理論に対処しているに過ぎないというのです。宗教的な人々が種の起源について主張しているなら、その主張に対処するのは確かに正当なことです。そして、そのような主張に対処するには、宗教的な推論や予想の失敗を説明することが必要です。それ以上でも以下でもありません。進化論はこれを超えたところで厳密に科学的だ、と言うのです。

 

しかし、実際にはこれは誤りです。例えば、非効用性から来る一般的な論議について考えてみましょう。ダーウィンはしばしば、非効率的に見える、あるいはあまり機能していない生物学的構造を、デザインの反証として引き合いに出しました。例えば、水辺から離れたところで観察されることの多い鳥類に、水掻のある足を持っているものがいました。ダーウィンが論じたところでは、「高地のガンやグンカンドリの水掻のある足がこれらの鳥にとって特別な用途をもつと信じることはできない。・・・我々はこれらの構造を遺伝に帰して差しつかえない」。 創造者がそのような功利性に欠けるものの創造に労力を費やするはずはないので、遺伝が正しい結論だということです。

 

もちろんこれは宗教的な論議です。創造者が何をし、何をしないかについての神学的主張を取り除けば、この論議は破綻します。ここに進化の科学的証拠はありません。

 

しかし、もっと重要なことは、この神学は進化的思考とその根底にあるエピクロス主義に特有のものであるということです。そのような議論は単に反対意見に対処しているだけだという進化論者の返答は、そのような反対意見は存在しないという単純な理由から誤りです。反対意見は、そのような水掻のある足は神により意図されたものではなかったとしたのではありません。より一般的に、非効率的な、あるいは非功利的な構造が意図されなかったとしてもいません。しばしば功利主義者としてステレオタイプ化される自然神学者たちでさえ、実際には一貫して美学やデザインパターンといった非功利的なデザイン基準に訴えていました1

 

神の意図は厳密に功利主義的であるという神学的な主張は、進化論に特有のものです。それは進化のための強力な論議となりますが、その強力さは神学に由来します。このことに留意してください。進化論が強力であればあるほど、神学的なコミットメントも強力になります。神学がなければ、進化論者が勇ましく主張するように、生物界全体が自然に発生したと信じる根拠はほとんどありません。

功利主義的定式化

このすべてにおいて皮肉なのは、進化論自体が功利主義的な定式化であることです。つまり、自然選択とは、より適合性 (あるいは効用性) が高い種が進化していく過程を記述するものです。進化の過程は、より大きな効用を創造しなければなりません。したがって、進化の証明として提示された多くの非効用の例は、実際には進化にとって問題なのです。さもなければ、このような無用なデザインは、精密工学の限界がないように見える自然選択の監視の目を逃れたと信じなければなりません。

 

進化論者は、この非効用性の証拠を自分たちの理論に適用し損なう一方で、インテリジェントデザインには不適切に適用しています。言い換えれば、進化論者はインテリジェントデザインに対して、適合性と効用性という進化論的基準を適用する一方で、その基準を進化論からは取り下げています。考え方が逆になっているのです。

注釈

  1. Hunter, C. (2021) The Role of Non-Adaptive Design Doctrine in Evolutionary Thought. Religions (Basel, Switzerland). 12 (4), 282-. https://doi.org/10.3390/rel12040282