Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

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フランシス・コリンズ: 気まぐれな方法論的唯物論者

This is the Japanese translation of this site.

 

ジョナサン・ウィット

2021/10/14 6:26

 

私は今年で出版後15年経った、フランシス・コリンズの影響力のあるベストセラー『ゲノムと聖書』を振り返りました (こちらをご覧ください)。この本の中でコリンズは、方法論的唯物論 (または方法論的自然主義) と呼ばれるルールを持ち出し、科学者が特定の生物学的構造について、単にまだ発見されていないからと言って、純粋に物質的な原因を探すのを諦めるべきではないと論じています。

 

彼は、インテリジェントデザイン推進者はこのルールに違反しており、「ID論は、科学では説明できないとされる部分には超自然的な介入があったとする「隙間の神」理論である」と書いています。その「提唱者は、まだ理解されてない事柄と将来的にも理解不能な事柄、あるいは、まだ解決されていない事柄と将来的にも解決不能な事柄を混同するという間違いを犯した」のです。

 

ここで示唆されているのは、デザイン理論家は想像力の欠如に妨げられており、盲目的進化がどのように鞭毛モーターのような精巧なものを達成できたのかを想像できないということです。しかし、コリンズと彼の仲間の進化論者たちは、鞭毛に至る信用に値する進化的経路を想像することも、ましてや実験室で実証することもできていません。コリンズがこの本を書いたときも、そしてこの15年間にも、彼らはできませんでした。正反対に、細菌鞭毛の工学的精巧さについて研究者たちが学べば学ぶほど、単純な原始的前駆体から完全に機能する鞭毛に至る、無誘導のもっともらしい進化的経路の可能性はますます遠のいています。

 

この状況は2つの可能性を示唆しています。すなわち、(1) 無誘導の進化的経路が存在し、科学者がいずれそれを発見する、(2) 知性によって誘導されるものを除いてそのような経路はない、のどちらかです。コリンズは、2番目の選択肢の考慮を拒むことで、論点先取の誤謬を犯しています。

 

地球から木星まで自然のはしごが伸びているから、木星まで登ることができるんだと女の子に言う男の子を想像してください。少女は、地球上の誰もそんな梯子を見つけたことがないし、惑星間の距離が常に変化していること、それらの間に太陽があることなど、はしごが存在しないと信じる正当な理由があると指摘します。少年は首を振り、彼女に辛抱強く説明します。「君の言い分は、無知に訴える論証だよ。科学者たちは、太陽系で常にあらゆる種類の新しいものを発見しているんだ。月はその道の一歩だ。次は火星だ。火星の向こうの小惑星帯は、数年前までは誰も一つも知らなかった。ほら、すべてがうまく収まっている」。

 

もちろん、コリンズが提唱しているのは、細菌の鞭毛の進化的経路が必ず見つかるということで、それほど突飛ではありませんが、同じような推論を採用しています。彼は、細菌の鞭毛に至る精神によらない進化的経路が確かに存在すると (反対の証拠が山ほどあるのに直面しながら) 仮定し、その仮定を、それがやがて発見されることに懐疑的な科学者は、単純に諦めて神によるデザインに訴えている、言い換えれば、科学者として失敗しているという非難と結びつけています。

ベーエに倣っている

しかし、ここに奇妙なことがあり、『ゲノムと聖書』を興味深い研究にしています。すでに見たように、コリンズは常にこの誤りを犯しているわけではありません。例えば、宇宙の起源とファインチューニングからデザインを論じるとき、コリンズはベーエと同じようなデザイン論を展開し、問題についての現在の証拠の最良の説明としてデザインを推論しています。そうすることで、IDに反対して唱えた方法論的唯物論のルールにコリンズ自身が違反しているという批判は当然成り立ちます。

 

この批判は、コリンズがデザインの証拠として人間の心の中にある道徳律に訴えた、もう一つのデザイン論に対してもなされるでしょう。コリンズは、道徳律に関するもう一つの有力な説明、すなわち、私たちが道徳律と考えるものはダーウィン的進化によって植え付けられた生存本能に過ぎないという説明を批判し、より良い説明は、私たちが単なる物質ではなく、霊性が備わっているというものだと論じます。

 

これに対して、首尾一貫した方法論的唯物論者は、「しかしコリンズ博士、人間の利他性のようなものに至る詳細な進化的経路について私たちが無知であることは、その経路が決して見つからないことを意味しません。あなたはデザインや非物質的な魂について、無知に訴える論証をしています。あなたはそんなことはできないでしょう」と答えられるでしょう。

 

コリンズが、宇宙の起源、宇宙のファインチューニング、内なる道徳律からデザインを推論したとき、方法論的唯物論の人工的な制約を無視したのは正しいことでした。彼が適切な物質的原因に対する私たちの無知からデザインを論じただけだという反論は、そのような物質的原因が存在するという証拠を先に仮定しています。真に科学的なアプローチとは、歴史上の科学者が日常的に行っているように、入手可能な証拠を比較し、最良の説明を推論し、その後の発見に照らしてその推論がどれほど持ちこたえるかを見ることです。

 

世界の指導的な遺伝学者の一人は、宇宙論や人間の経験の領域でこの権利を主張することにより、問題が最初の特異点であろうが最初の生きた細胞であろうが、このようなアプローチを取ることが当然とされる日に一歩でも近づくように私たちを促してきました。

コリンズの神学

コリンズは、方法論的唯物論の選択的適用と、ダーウィニズムキリスト教にとって脅威ではないという信念のために、神学的な論議を展開しています。神は宇宙の初期条件を完璧に微細調整したので、進化では賦与できない不滅の魂を植え付けることにより人類の特性という一つの形を育てる準備が整うまで、それ以上の介入は必要なかったと彼は提唱しています。コリンズは、「人間には、進化論では説明できない唯一無二の部分もあり、その霊的な性質は他の生物に例を見ない」と主張します。

 

この見解では、神は宇宙の起源および人類の起源と歴史においては直接行動しましたが、その完全な知恵は、140億年の間に自然が追加の指導や指示 (またはデザイン) を必要としなかったということになります。コリンズは、このような「完全に天賦の創造」(物理学者のハワード・ヴァン・ティルの用語を借りています) 以下のものは、全知全能である神にふさわしくないと提唱しています。

 

コリンズは、「ID論は、全能の神をあたかも不器用な創造者のように描いてしまう。生命の複雑さを最初に造り出したのが神自身であるなら、なぜそうたびたび介入して、不適当な部分を手直ししなければならないのか。到底想像できないような神の崇高な知性と天才的創造性に畏れかしこむ信者にとって、そのような神のイメージは満足のいかないものである」と述べています。このように、物質の起源と人間の起源との間には、方法論的唯物論の原理を一貫して適用する十分な神学的理由があると、彼は提唱しています。

 

しかし、この論議をする際、コリンズは、神と時間との関係を、第3章でこの主題を扱ったときとは矛盾する形で扱っています。そこで彼は、キリスト教の神は、過去と現在の両方、そして未来の時間を創出したのであり、時間を超越していると述べています。彼はこの点を、どのようにして神がビッグバン以前に存在し得たか、神が微細に調整した新しい宇宙がいつか地球という惑星と人類の進化につながることを知り得たかを説明するために指摘しています。

 

しかし、この神学的な指摘は、「完全に天賦の」宇宙の起源に、最初から適切な設計ができない神を仮定しているというインテリジェントデザインへの彼の批判には不利になるという事実を、彼は見落としているように見えます。もし「私はある」が時間の外にいて、過去、現在、未来を監視しているならば、これらの介入は140億年前に「一挙に」行われたか、宇宙の歴史を通じて異なる時点で行われたかにかかわらず、「私はある」の永遠の現在において起こったことになります。

 

また、デザイナーが創造に継続的に関与することを、コリンズが軽率にも無能と同一視していることにも注目してください。コリンズが推薦する『Finding Darwin's God』の著者ケネス・ミラーは、同様の気分で、インテリジェントデザイン論者の神とは「整備があまり上手でないのにボンネットを開けてエンジンをいじり続けるような子供のようだ」と『フィラデルフィア・インクワイアラー』に語りました1。しかし、このような特徴付けは、生きた細胞、器官、生物のような情報豊かな構造がどれほど良く設計されていようとも、物理学や化学の法則的過程だけで生成されることを実証なしに仮定しているのみならず、神学的に盲目でもあります。もし、創造者が現代の理神論のような無関心な神でないとしたらどうでしょう?もし、創造者が常に関与したがっているとしたらどうでしょう?もし、創造者が、宇宙の監視をやめて超新星からひまわりに至るまであらゆるものを作り出すままに放っておくことを望まなかったらどうでしょう?もし、宇宙と彼の関係が、庭師と庭のようなものだとしたらどうでしょう?もし、彼が自分の手を汚したいと思っているとしたらどうでしょう?

神の機会

コリンズの統合論には、もう一つの決定的な欠点があります。それは、神の主権とダーウィン理論の核心であるランダム要素のどちらかを損なっていることです。関連する一節は第10章にあり、そこでコリンズは「神はどうしてそんな冒険をしたのだろうか?もし進化が無作為であるなら、どうして神が監督していると言えるのか。そして、どうやって進化の結果として知的な存在が出現すると、神にわかるのだろうか」と尋ねています。彼は続けて、その答えは、

 

実は簡単なことである。人間が持つ限界を神に当てはめるのを止めればよい。もし神が自然界の外に存在するのであれば、時間にも空間にも制限されないはずである。したがって、神は宇宙を造ったその瞬間に、将来のすべての詳細をも知っていたことになる。そこには恒星や惑星、星雲、そして化学、物理、地学、生物学など、地上での生命の形成に関わる分野のすべて、さらには人間の進化も含まれるであろう。たった今、あなたが本書を読んでいるという事実からその先に至るまで、ずっとお見通しだったということだ。

 

そういうことなので、コリンズは、「線形時間に・・・制限される」私たちの考えるところにおいて進化が「偶然の積み重ねであっても、神の目からは、結果はすべてあらかじめ決定されていたことになる」と結論しています。

 

いいでしょう。しかし、もし進化の過程が一見ランダムに見えるだけで、実のところ神の先見性、技術、そして神自身がデザインした二次的原因の利用を通して完全に特定されていたのであれば、実際には進化の過程にダーウィン的ランダム性は関係しないことになり、コリンズが提唱したことは、純粋に二次的原因の利用を通してであるとはいえ、生命の多様性はすべて神によって知的にデザインされたと言っているのも同然でしょう。

 

その前の章でコリンズは、悪いデザインとされるもの (目の後ろ向きの配線など) はダーウィン的進化のせいであるとしています。しかし、もしすべての物理的事象が、最初から宇宙に組み込まれた計画に従って展開されるなら、神は目の後ろ向きの配線にも、直接デザインした場合と同様に、あらゆる点で責任があることになります。コリンズは、二兎を追う者は一兎をも得ず、の状態です。

コリンズの高尚な伝統

これらの矛盾と証拠的問題は、結局のところ、現代のダーウィニズムと正統派キリスト教を統合しようとするコリンズの努力を台無しにしています。ところが、彼は『ゲノムと聖書』の中で、彼のような科学界で高名な人物にとって非常に重要なことを行っています。嬉しいことに、宇宙の起源、物理定数のファインチューニング、人間の心の中にある道徳律の最良の説明としてデザインを考慮することを自らに許すことで、彼は方法論的唯物論の教条的ルールを破りました。

 

この自由を自らに認めることで、コリンズは科学革命の基礎に立ち戻っています。現代科学は2つの確信、つまり宇宙は合理的な精神の合理的な産物であり、その製作者は以前の時代の演繹的三段論法に逐一拘束されてはいないという確信から生まれました。これは、科学者にとって創造者がどのように物事を行ったかを判断する最善の方法は、自然に目を向け、忍耐強く精査し、たとえ大切にしてきた理論が覆されたとしてもその証拠に従っていくことだということを意味します。

 

コリンズは、その高尚な召命に常に応えてきたわけではありません。特に、生物学におけるインテリジェントデザインの最良の証拠と論議への向き合い方が矮小な点でそう言えます。『ゲノムと聖書』やその後の彼の著作の多くの箇所を読むと、ダーウィン主義生物学者ケネス・ミラーの仕事の要約本を急いで準備したかのように思えます。ミラーの反インテリジェントデザイン弁証論は、それ自体がデザイン論への藁人形攻撃や、マイケル・ベーエ、スコット・ミニッチ、ウィリアム・デムスキー、ダグラス・アックス、スティーブン・メイヤーなどの親デザイン論の科学者の最良の反論に向き合うことに事実上失敗していることで目立っています。しかし、『ゲノムと聖書』の中でコリンズは最善を尽くし、現代科学の創始者たちと同じ高い伝統のもとに自然界に向き合い、論点先取的方法論の規則に縛られることを拒否し、その代わりに、たとえ彼がこれを率直に告白することはまずないとしても、証拠が導くところに — 少なくとも2、3の事例ではインテリジェントデザインにさえ — 従っています。

注釈

  1. ケネス・ミラー、ポール・ヌスバウムによる引用、「Evangelicals Divided over Evolution」、『フィラデルフィア・インクワイアラー』(2005年5月30日)

編集者注: このエッセイは、『Touchstone』誌に掲載された書評を大幅に改訂したものです。