Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

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デザイン論を理解する: カトリックのための手引き

This is the Japanese translation of this site.

 

ローガン・ポール・ゲイジ
2023/4/24 7:22

 

編集部注: 生物学者のアン・ゲイジャーが編集した新刊、『God's Grandeur: The Catholic Case for Intelligent Design』からの抜粋をお届けできることを嬉しく思います。Godsgrandeur.orgで全章のダウンロードと本の購入が可能です。

 

私の経験では、カトリック教徒は進化やインテリジェントデザインについて考えようとすると、多くの課題に直面する。我々の多くは、その際にどこかで司祭や教師からこの論点について悩まないようにと言われたことがある。すなわち、何であれ「科学」が言うことは結構なのだ。加えて、進化インテリジェントデザインという言葉の意味そのものをめぐっていくらかの混乱さえある。

 

新刊『God's Grandeur』の序章で私は、読者がこれらの考えについてより注意深く、批判的に考えるのを助けることを目指している。我々は最初に、デザイン論が健全かどうか今でも心配するのではなく、これらの論議が何を主張しているのか、そして同様に重要なこととして、何を主張していないのかを理解しなければならない。この目的のために、私はいくつかの予備知識を提供し、用語の定義を試み、そのような論議の形式について議論し、カトリックの一般的な誤解について考察する。そうすることで、この後の各章で、このような論議の成否を評価するためのより良い立場に立てるようになることを私は望んでいる。

古代の弁証

多くのアメリカ人カトリック教徒にとって、進化やインテリジェントデザインの議論は、「スコープスモンキー裁判」や、文字通りの6日間の創造論を公立学校で教えようとした原理主義クリスチャンを思い起こさせる。我々カトリック教徒の大半は、リチャード・ドーキンスや新無神論者の攻撃的な進化的無神論に不快感を抱きつつ、そのような戦いは自分たちにはあまり関りがないと感じている。それでも、この点に関しては性急すぎるかもしれない。根本的な討論は近年のものではない。西洋では長い間、我々の世界の驚嘆すべき美しい生き物がどこから来たのかについて、2つの支配的な説話があった。すなわち、偶発的な事象か知的な先見の明によるものか、である。これらの説話は、キリスト教原理主義より前にあったのみならず、キリスト教そのものよりも古くからあった。この論点を推し進めると、根本的な形而上学にまで至ることになる。すなわち、自存する究極の実在とは何だろうか?非人格的な物質なのか、人格的な創造者なのか?

 

紀元前5世紀のソクラテスまでさかのぼると、この西洋哲学の父が明確なデザイン論を展開しているのがわかる。彼の弟子クセノフォンは、人間は至高の神によって最も恵まれた立場にあるというソクラテスの見解を記録している。我々は身体と精神において唯一無二なものとして整えらえれている。他のすべてのものは、我々の利益のためにここにあるように思える。そして自然そのものが、一貫して最良あるいは最上の方法で整えられているように見える。これらすべてが神の摂理の証となっているとソクラテスは論じる。この基本テーマの変形版は、彼の後継者であるプラトン、アリストテレス、そしてそれ以降にも現れる。

 

一方、デモクリトス、レウキッポス、エピクロスといったギリシャの原子論者たちからは、反対の説話が出てきた。彼らは、人間はもちろん知的であると主張した。しかし、この知性は遅れて現出したものだ。究極の現実は知的ではない。根本的に存在するのは原子であり、原子が衝突する空虚な空間である。今日、多くの人が「愛は脳の化学反応に過ぎない」などと愚かなことを言っているのを耳にするように、原子論者もまた、すべての現象は物質体の特性に実際に還元されると信じていた。原子論者にとっては、我々自身のような高度に組織化された存在は、偶然により自己組織化したものだ。存在する世界の数は無限である。だから、無限の時間があれば、原子のあらゆる組み合わせがどこかで姿を現すに違いない!確かに生物は知的にデザインされているように見えるが、偶発的な貧弱なデザインは消滅し、偶発的な優れたデザインは生き残ったのだ。

 

まことに、日の下には新しきものなし、である。確かに違いはあるが、原子論者の説話は、ダーウィンの理論だけでなく、多元宇宙のシナリオをも明らかに先取りしている。遥かにさかのぼれば、根本的な論点は、我々の世界のデザインされたように見える特徴が、本当に知的にデザインされたものなのか、それとも知性の関与しない幸運な偶然によって説明できるものなのかということだ。リチャード・ドーキンスでさえ認めているように、「生物学は、ある目的のためにデザインされているかのように見える複雑なものについての学問なのだ」。もちろん、彼もかつての原子論者と同様、このデザインは見かけ上のものであり、現実ではないと考えている。

インテリジェントデザインとは何か

この古典的な弁証を視野に入れ、インテリジェントデザイン (ID) 支持者は通常、インテリジェントデザインを、宇宙や生物のある種の特徴は、無方向性の過程よりも、知的な原因が最良の説明となるという見解として定義している。これは、進化が起こったことはないとか、自然の過程や力に役割がないという意味ではないことに注意されたい。それはむしろ、自然の過程や力がすべてではないという最小限の主張であり、すべてのものの起源は神にあると信じる我々カトリック教徒が、教義として傾倒している主張である。

 

デザイン支持者たちは、さまざまなレベルで、見かけのデザインではなく現実のデザインについて論じてきた。例えば、宇宙の始まりには知的な原因を必要とする (ウィリアム・レーン・クレイグとジェームズ・シンクレア)、物理法則はデザインされている (ロビン・コリンズ)、我々の惑星は比類なくデザインされている (ギリェルモ・ゴンザレスとジェイ・W・リチャーズ)、我々が知る化学は生命のためにデザインされている (マイケル・デントン; ベンジャミン・ワイカー、ジョナサン・ウィット)、生物の構成要素は盲目的探索では見いだされず、デザインされたものでなければならない (ダグラス・アックス)、最初の生物と化石記録はデザインの証拠を与える (スティーブン・メイヤー)、生物のマクロおよびミクロ双方の特徴はインテリジェントデザインの証拠を与える (マイケル・デントン; マイケル・ベーエ) と論じてきた。

 

これらの論議について、取り急ぎ3つのことに注意してほしい。第1に、固定観念とは対照的に、これらの論議は「隙間の神」論ではない。これらの論議はいずれも、「何が原因でこうなったのか分からないから、神がやったに違いない」と主張するものではない。むしろ、デザイン支持者の標準的な論議の様式は最良の説明への推論であり、これは普遍的な、特に (進化生物学のような) 歴史科学では一般的な論法形式である。彼らは、自然界には意図的なデザインの肯定的な兆候があり、それに比べて非意図的な説明は弱いと論じる。これはカトリックの信仰に大いに合致する。聖書 (例: 詩編19編、ローマ1章)、教父たち (例: ナジアンゾスの聖グレゴリオス)、公会議 (例: 第1バチカン公会議) はすべて、自然界における神の御業は、信仰によるのみならず、人間の理性によっても検出できると宣言している。

 

第2に、デザインの検出は、自然界における神の「介入」を検出したことを含意するものではない。デザインは、直接的な作用の有無にかかわらず検出可能である。トウモロコシ畑が意図的に植えられたことは、種を植えるためにドローンのような中間的な原因が使われたとしても識別できる。同様にデザイン論は、仲介の無い神の作用を必ずしも示唆しない。

 

第3に、これらの論議は明らかに神学的な意味合いを持つが、ID支持者たちは公に入手可能な科学的証拠を固守しようとしており、宗教的文章から論じてはいない。ほとんどのインテリジェントデザイン支持者はクリスチャンであるが、デザイナーがキリスト教の神であるという論議には、単なる科学的証拠以上のものを必要とする。ID支持者は、神を信じていることについて口を閉ざしているのではなく、結論に慎重になっているのだ。アクィナスは同じことをしている。

インテリジェントデザインとは何ではないか

多くのカトリック知識人は、インテリジェントデザイン論者が誤った二分法を提唱しているという誤った印象に囚われている。すなわち、知的デザイナーが存在するか、さもなければ自然法則が我々の世界のデザインされたように見える特徴をもたらしたか — あたかも神が自然法則そのものをもたらすことはできない、あるいは自然の原因が神の道具 (すなわち二次原因) となることはできないかのように — のどちらかということである。これは実に不幸なジレンマであろう。幸いなことに、これは誤解である。IDはゼロサムゲームを示唆するものではない。つまり、もし神が何かをもたらすには、神は直接行動しなければならず、さらには自然が真の原因になることはできないというわけではない。むしろ、我々の世界のいくつかの特徴が、それらの起源の物語のどこかで知的にデザインされたことを示す非常に良い証拠を与えるという最小限の主張をしている。IDが否定しているのは、自然界のあらゆる特徴が総じて自然の力の産物であるということである。このコミットメントがカトリックと必然的に共有されることを考えると、この点についてのIDへのカトリックの敵意は、控えめに言っても驚くべきことである。

 

この章の注釈を含め、続きは今すぐ『God’s Grandeur: The Catholic Case for Intelligent Design』を一冊購入してお読みください!