Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

ダーウィンに洗礼を授けようか?カトリックの生物学者の考察

This is the Japanese translation of this site.

 

アン・ゲイジャー
2023/4/18 6:52

 

編集部注: ゲイジャー博士が編集した新刊、『God's Grandeur: The Catholic Case for Intelligent Design』からの抜粋をお届けできることを嬉しく思います。Godsgrandeur.orgで全章のダウンロードと本の購入が可能です。

 

世界は神のかがやきを帯びている

それはふるえる金箔から発する光のように 電光の瞬きのごとく突然輝くだろう

それは絞られた油が滲み出ていくように 集まって大きなものとなる

それなのに なぜ人は今や 神の御力を心に掛けないのだろうか

― ジェラード・マンリー・ホプキンズ [訳注: 日本語訳は、関西大学文学部の高橋美帆教授の論文、「自己・自然・信仰 ― G.M.ホプキンズと宮澤賢治 ―」から引用しました。]

 

世界は、いや宇宙は、威光に満ちている。すべてが美、力、目的、つまりデザインを物語っている。物理法則の優美な関係、生命を可能にする見事な元素の特性、生物の洗練された方法、生物圏の相互依存性はすべて、デザイナーの手によるものであることを明らかにしている。

 

このことは、神を信じる者にとっては何ら驚くべきことではない。三大一神教はすべて、神が万物の創造者であることを認めている。「初めに神は天と地を創造された」と聖書は言っている (創世記1:1)。使徒パウロは、このことは明確に見ることができ、神の御業は神性と力を明らかにするものであるから、私たちは言い訳ができないと宣言している (ローマ1:20参照)。

 

聖書は、神が人間を創造されたとき、彼らをご自分の像に、男性と女性に創造されたとも言っている。教皇ベネディクト16世はこのように述べた。「わたしたちは、進化の結果、偶然に生まれた、無意味な産物のようなものではありません。わたしたち一人ひとりは、神のはからいに基づいて生まれたのです。わたしたち一人ひとりは、神から望まれ、愛され、必要とされています」。1

人間の拒絶

とはいえ、創造の威光にもかかわらず、多くの人がこのことを認めていないのは明らかだ。ビクトリア朝時代の詩人で司祭であったジェラード・マンリー・ホプキンズは、「なぜ人は今や 神の御力を心に掛けない [すなわち、重んじない] のだろうか」という必然的な疑問を提起している。なぜ彼らは神の力と、創造における神からの途方もない賜物を認識しないのか?この問いは、深遠であると同時に緊急でもある。不信心は新しいことではないが、今や遍在しており、これは、我々の文化における急進的な唯物論 ― 財貨の際限のない蓄積へと我々を駆り立てる類のもの [訳注: これは日本語では物質主義と呼ばれるものです。英語の「materialism」は物質主義と唯物論の両方を意味するので、ゲイジャー博士はどちらの意味かを明確にしています] ではなく、我々は運動する分子、物質、エネルギーに過ぎないと主張する類のもの ― の影響によるところが大きいと言わなければならない。いわゆる科学的唯物論は、魂、善、真理、美、自由意志、神など、あらゆる非物質的なものを否定する。すべては自己定義された相対的なものである。存在の根拠も、究極の原因も、理由もない。宇宙は無意味であり、盲目的で無目的な力の産物である。無神論者の進化生物学者、リチャード・ドーキンスは言う。「われわれが観察する世界の特徴は、実際にいかなる設計も目的もなく、善も悪もなくて、ただ見境のない非常な無関心しかない世界に当然予想される特徴そのものなのである」。2

 

神に対して持ち出される告発の一つは、神は不必要だというものである。物理学と宇宙論は宇宙の存在とファインチューニングを説明できる。過去も現在も、生命の素晴らしい形態は、純粋に無誘導の自然の過程で説明できる。そして、我々人間は、我々を念頭に置いていなかった盲目的な進化の過程の産物である。我々の若者は学校でこの教義を教わり、それにはしばしば、宗教的信条へのあからさまな挑戦も伴っている。唯物論の教義は、ほぼすべての世俗メディアでも説かれている。

 

私は科学者またカトリック教徒として、これを書いている。科学が目的や意味、すべての非物質的なものを否定するために使われるべきだとされると、私は不安になる。私にとっては、正しく理解された科学は神から遠ざかるのではなく、神を指し示すのであり、神のデザインの証拠が至る所にあることは明らかなのに、それが神に反対する論議として使われることに怒りを覚える。

信仰への挑戦としての科学

残念ながら、自然のインテリジェントデザインを否定するのは唯物論者の科学者だけではない。カトリックの進化支持者の多くは、進化の証拠は深く、否定できないと確信している。彼らは同時に、インテリジェントデザインのいかなる証拠も否定する。これは奇妙なことだ。進化とは曖昧な言葉である。「時を経て、バクテリアの集団は抗生物質耐性を進化させた」というように、経時変化を意味することもあり、 これは例外的ではない、観察可能な事実である。また、グループ間の共通祖先を主張する記述も耳にする。「イヌ、キツネ、オオカミはすべて共通の祖先から進化した」。この記述は、類似性が祖先の血縁関係を示唆するというダーウィン以前の考えに基づいている。これらの記述はいずれも、本質的に信仰と反目するものではない。化石記録やゲノムの記録から、経時変化や共通祖先を論じることは可能だ。しかし、どちらの記録も、進化かインテリジェントデザイン、あるいはその2つの組み合わせの、どの過程に起因するかを決定的に明らかにすることはない。神が進化の過程を何らかの仕方で導いたという1つの認識があれば、カトリックは、1つの例外 — 人間の創造 — を除いて、共通系統を受け入れる自由がある。私たちは皆、最初の両親の子孫である (単一起源)。さらに、神は受胎の瞬間に各人の魂を直接創造する。

では、なぜ一部のカトリック教徒は検出可能な創造のデザインを否定するのだろうか?それは科学的正統性に逆らうからだと私は思う。彼らは、進化生物学者たちの思い違いに気づくよりも、神学的な回避策を見つけるか、神学を完全に解釈し直すだろう。

認知的不協和の解決策?

この認知的不協和に対処するために、ブラウン大学教授の生物学者ケネス・ミラーのようなカトリック教徒は、正統派から逸脱している。ミラーは、もし進化のテープをもう一度進めたら、「あらゆる場面で異なる事象が起こるかもしれない」と言ったことがある。彼はこの異端的な考えをさらに発展させ、このように述べている。「このことは、人類がこの惑星に出現したのは、あらかじめ運命づけられていたわけではないということを意味している。私たちがここにいるのは、必然的な一連の進化的成功の産物としてではなく、後付けのこと、些細なこと、我々抜きでも差し支えなかったかもしれない歴史における偶発事態としてなのである」。3

 

ジョージタウン大学の神学者であるジョン・ホートは、さらに一歩進めて、進化論を、神が自らの創造に宇宙を参加させるための方法として受容している。

 

世界を操り人形の糸に繋ぐような創造者よりも、自らを作り出せるような世界を作る創造者の方が、はるかに崇敬に値する。神の「デザイン」を無制限に課すと、事実上、神以外のものの余地はなくなり、世界にとっても余地はまったくなくなってしまう。最初から完璧に「デザイン」された世界は、聖書的な創造の観念とは矛盾する。事実、聖書文献の全体的な主旨は、我々が世界の過去や現在においてではなく、その未来に完全性を求めるようになることにある。創造はデザインではなく、物質、生命、精神の出現を、危険だが壮大な物語に変える約束なのである。4

 

プロセス神学として知られるホートの見解は、カトリック主義というよりは万有内在神論めいたものがある。また、イエズス会の司祭であり、神秘主義者であり、古生物学者でもあったテイヤール・ド・シャルダンを彷彿とさせる。シャルダンは神学者ではなかったことに注意しなければならないが、進化に照らして福音を解釈する新しい方法についての彼の情熱的な著作は非難を浴びた。彼の著作は教会によって弾圧され、今でも多くの人が異端視している。とはいえ、私の限られた読解力では、彼がキリストに深く献身した人物であったことは明らかだ。彼は、物質的創造のすべては神によって燃え上がり、人間と神との協力を通して、神の中で完全に向かって成長すると見ていた。5

 

彼にとって、キリストの形象は「3つの性質」を持っていた。受肉における人性と神性、そしてオメガポイントである宇宙性であり、それに向かって万物は収斂していく。私も神学者ではないが、私にとって、キリストは完全に人間であり、完全に神でもあるという伝統的なキリスト教の見解からすると、何であれ宇宙性のキリストという観念は不必要である。

 

テイヤール・ド・シャルダンが亡くなったのは1955年、DNAの構造が発見されてからわずか2年後のことだった。彼はこの70年間に明らかになった分子生物学の驚異を何も知ることはなかった。彼は今、自然界に見られる栄光にどれほど酔いしれていることだろう!

トマス・アクィナスに依拠する主張

エドワード・フェイザーやスティーブン・バーを含む他の哲学者や科学者は、インテリジェントデザイン理論は科学だけでなく、トマス・アクィナスや形而上学とも対立していると主張している。 彼らは、アクィナスの第一原因および第二原因に関する教えが進化の受容を可能にし、それで終わりだと主張する。神の手は万物を把握しているが、神は万物が時とともに自ら変化する二次原因として、その本性に従って行動することを許している。つまり神は、進化を生命が今日ある姿になるための手段として定めたが、神が進化のランダムな過程を導いたとしても、その作用が盲目的な物質的過程と区別できないような仕方でそうしたのである。したがって、デザインは検出できない6。インテリジェントデザインに反対するこの論議を展開するトマス主義の哲学者たちは、この理論が機械論的であり、形相、実体、偶有性といったトマス主義的な考え方を否定しているとも非難している。

 

やれやれ。簡単に説明すると、『God’s Grandeur』の中で説明しているように、インテリジェントデザインを拒絶する新トマス主義者の立場は、哲学的なごまかし、すなわちランダム性の曖昧な定義に依存している。科学者たちは、進化は自然選択によって選別されたランダムな過程の結果であると言う。科学者たちが言うランダムとは、生物の必要を顧慮しない、誘導されないことを意味する。ランダムに見えながら、神によって誘導されているという意味ではない。神であっても、誘導されない (ランダムな) 過程を誘導することはできないということも指摘しておくべきだろう。量子の不確定性も役には立たない。また、インテリジェントデザインへのこの意見の相違は、アクィナスの誤った読み方にかかっている。

 

いくつか補足的なコメントを述べよう。第1に、最も明白なことは、有神論的進化論者は、ダーウィンによって最初に作られた理論に、特殊創造の教義の代用として洗礼を施しており、(少なくとも生物界に関しては) 創造者である神の代理となることを意図したということである。この理論は無力ではない。とはいえ有神論的進化論者は、多くの主流派科学者が生命を説明するための誘導されない進化の有効性に疑問を持ち始めているまさにその時に、進化論へのコミットメントをさらに強めている。悲しいことに、進化論を疑うことなく全面的に受容することは、『God’s Grandeur』で説明されているように、信仰を損なうことになる。

進化と創造

名誉教皇ベネディクト16世は、ラッツィンガー枢機卿時代の著書『In the Beginning』(1990年) の中で、創造の神学の喪失を、聖書と教会への信仰の喪失に結びつけている。

 

実際、ある神学者は少し前に、創造は今や非現実的な概念になってしまったと述べている。知的に誠実であろうとするならば、もはや創造ではなく、突然変異と選択について語るべきだと言うのだ。この言葉は真実なのだろうか?・・・既に一つの答えが、しばらく前に出されている・・・。それによると、聖書は自然科学の教科書ではないし、そうなるように意図されてもいない・・・描写の形式と描写されている内容は区別しなければならず・・・その目的は、究極的には「が世界を創造した」という一点に尽きるだろう・・・。

 

私はこの見解は正しいと思うが、それだけでは十分ではない・・・。そして結局のところ、もしかするとこのようなものの見方は、教会と、解決策を使い果たした神学者たちの策略に過ぎないのではないかという疑念が深まっていく・・・。それで、次のように問うことができる。神学者や教会でさえ、イメージと意図の境界、過去に葬られ横たわっているものと永続的な価値を持つものとの境界をここでずらすことができるのなら、なぜ他のところで、例えばイエスの奇跡について、そうすることができないのだろうか?

 

このような作業は、しばしば信仰そのものを疑わせ、それを解釈している人たちの正直さや、そこに永続的なものがあるのかについての疑問の提起で終わる。この種の神学的見解に関する限り、最終的に、かなり多くの人々が、教会の信仰はクラゲのようなものだという不変的な印象を持っている。すなわち、誰もそれをつかむことができず、それには確固たる中心もない。病的なキリスト教が拠って立つのは、どこでも見ることができる聖書の言葉の生半可な解釈だ。それは、もはや自分自身に忠実ではなく、その結果、励ましや熱意を発することのできないキリスト教である。むしろ、他に何も言うことがないにもかかわらず、語り続ける組織という印象を与えている。捻じ曲げられた言葉には説得力がなく、自身の空虚さを隠すことにしか関心がないからだ。7

 

有神論的進化論は末梢的な問題ではない。それは我々が自身をどう見るかに影響し、ひいては聖書の言葉をどれだけ真剣に受け止めるかに影響する。私は、崇高な聖日の中でも最高の日である復活の徹夜祭のミサの度に、朗読の最初の部分が、創世記の最初の章であることに気づく。教会は、創世記における第1のアダムと、復活した第2のアダム、キリストを結びつけ、我々がどのような運命にあるのかを強調している。そのことを考えてみてほしい。我々は永遠に神と共にあり、神の喜びを存分に分かち合う運命にあるのだ。

 

我々は肉の機械ではない。改良された類人猿でもない。我々は遺伝子や育ち方によって決定され、善悪を選べないのではない。我々は神の像として造られた神の子なのだ。我々には人生の目的がある。我々には知性と魂と自由意志がある。我々は、自分たちが生きている宇宙の深い謎について、それが我々に理解可能なので、知識を深めることができる。つまり、我々は理性的な存在であり、世界は発見のために整えられている。

 

これらは我々がカトリックとして公言していることである。これらは進化生物学では説明できない事柄である。

 

ある時点で、我々はこの論点に正直に向き合わなければならない。唯物論的進化論、そしてある形式の有神論的進化論は、教会の教えとは調和しない。むしろ科学は、世界が意図的で知的なデザイナーの創造物であることを示している。

注釈

  1. 教皇ベネディクト16世、説教 (2005年4月24日)。
  2. Dawkins, R. (1995) River Out of Eden: A Darwinian View of Life. New York: Basic Books. 133. (邦訳:『遺伝子の川』、垂水雄二訳、草思社文庫、2014年、186ページ)
  3. Miller, K. R. (2007) Finding Darwin's God: A Scientist's Search for Common Ground Between God and Evolution. New York: Harper Perennial. 272.
  4. Haught, J. (2011) God after Darwin. The Montreal Review, May 2011. 2016年2月1日アクセス。http://www.themontrealreview.com/2009/God-after-Darwin.php
  5. Teilhard de Chardin, P. (1968) The Divine Milieu, rev. edition. Wall, G. (eds.) New York: Harper Torchbooks. 63.
  6. DNAの構造の共同発見者であるフランシス・クリックはこれに同意しない。「生物学者は、彼らが目にするものはデザインされたものではなく、進化したものであることを常に念頭に置かなければならない」。ということは、デザインは検出可能である
  7. Ratzinger, J. Cardinal (1990) In the Beginning. Huntington, IN: Our Sunday Visitor. 12-17.