Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

「聖なる大義」? 奴隷制廃止論者としてのチャールズ・ダーウィンを再考する

This is the Japanese translation of this site.

 

ロバート・シェディンガー

2023/3/16 13:03

 

2009年に、著名なダーウィンの伝記作家であるエイドリアン・デズモンドとジェームズ・ムーアは、『ダーウィンが信じた道 進化論に隠されたメッセージ』(原題: 『Darwin's Sacred Cause: Race, Slavery, and the Quest for Human Origins』) を出版しました。彼らは、ダーウィンの種の研究は、人類の起源についての人種差別的な多起源論と闘い、代わりに全人類を共通系統の傘の下に引き寄せたいという奴隷廃止論的願望が主な動機であったという過激な新命題を論じました。この本は広く賞賛され、かつ広く批判されてきました。

 

しかし、その命題に同意するかどうかは別として、多くの人がこの本を修史的研究の最高の例とみなしています。この本には820もの巻末注が含まれており、何百もの一次資料を引用していて、中でもとりわけ重要なのは、ダーウィンの大量の書簡を何百回も参照していることです。証拠に対するデズモンドとムーアの解釈には常に意見を異にすることができますが、彼らが下調べをしなかったと批判するのは難儀でしょう。

そう思っていたのですが

私自身、何年も前からダーウィンの書簡を読んできましたが、ダーウィンの手紙の中に、ダーウィンの種の研究の動機となった要因について、デズモンドとムーアの命題を支持するようなものは見当たりませんでした。しかし、彼らの本がいかに一次資料の文書に深く根ざしているかを考えると、きっと私は自分の読書の中で何かを見落としているに違いありません。何が解明されるのかという好奇心から、私は『ダーウィンが信じた道』を注意深く読み直すことに取りかかり、奴隷制度や人種についてのダーウィンの見解についてデズモンドとムーアが記載している箇所に特別な注意を払うことを決意しました。そして、この新しいダーウィン像を文書化するために彼らが引用している文献を確認しました。

 

衝撃的なことに、これらの大いに尊敬されている学者たちが、情報源や修史的研究の基本的理念をぞんざいに扱っていることが判明しました。

 

そのためここで、その証拠を詳細に列挙することを意図した一連の投稿を提供します。それは単に、デズモンドとムーアが引用した情報源から、自分たちの命題を支持するものだけを取り出して選択している、ということではありません。多くの歴史家は選択的です。むしろ、私が彼らの修史に見出したものはそれとは異なるレベルにあります。

大げさな記述

例えば、ビーグル号での航海中の先住民との出会いがダーウィンに与えた影響についての、デズモンドとムーアの大げさな記述を考慮してみましょう。

 

ダーウィンが自然科学に一生を捧げようと決意したのは、まったく異なる人種に驚き、うろたえたディエラ・デル・フエゴにおいてであった (165ページ)。
[訳注: 原文ではこの文章の冒頭に「Interestingly」があるのですが、日本語訳には反映されていないようです。原文だと、ここでのダーウィンの動機を本書の主題と関連付けようとしている印象を受けます。なお、「ディエラ・デル・フエゴ」とあるのは恐らく誤植で、他の訳文では「ティエラ・デル・フエゴ」となっています。]

 

これでは、ダーウィンの科学的研究は、主に人類学的な関心が動機となっていたように聞こえます。情報源を確認しましょう。巻末注で示されているのは、ダーウィンの自伝 (26ページ [訳注: これは126ページの誤りです。この後の自伝の邦訳からの引用は、『ダーウィン自伝』、八杉龍一/江上生子訳、筑摩書房、2000年、157ページです。]) と書簡集第1巻 (305ページと311-12ページ。デズモンドとムーアは、書簡集を巻数とページ数で引用し、日付や手紙の宛先では一度も引用していません) です。

 

自伝の中で、ダーウィンは実際には以下のように書いています。

 

ティエラ・デル・フエゴのグッド・サクセス湾で、私は、自然科学にわずかの貢献をすること以上によい生涯を送ることは自分にはできないと考えた (そして、そのように家への手紙に書いたと思う) ことを記憶している。

 

ダーウィンは確かに、ティエラ・デル・フエゴ滞在中に科学でのキャリアを熟考したとは言っていますが、デズモンドやムーアが示唆するように、それが「異人種に当惑し、悩まされた」ためであるというようなことは何も示唆していません。

 

書簡集第1巻305ページには、ビーグル号の航海中の1833年3月に書かれた、ダーウィンから姉のキャロライン宛ての手紙が反映されています。彼は地質学への愛が深まったこと、博物学からの喜びが増したので航海の困難に耐えることができたことに何度か言及していますが、異人種については何も言及していません。311-12ページには、1833年5月に妹のキャサリンに宛てた手紙が反映されており、その中でダーウィンは、熱帯海域の多数の無脊椎動物に言及し、「もしこれらのためでなく、ましてや地質学のためでなかったら、私はすぐに大西洋を渡って古き良きシュロップシャーに逃げ込むでしょう」と言っています。

 

これらの参考文献は、科学のキャリアへのダーウィンの関心に火をつけたのは、航海中の博物学の追求であったことを明確に実証しています。彼が「異人種に当惑し、悩まされた」ことが動機であったという考えは、デズモンドとムーアが引用した情報源には何の裏付けもありません。これは奴隷制との闘いが彼の聖なる大義であったという彼らの命題全体を損なう点です。

移住の夢想

もう1つの簡潔な例として、ダーウィンがどうして彼の子供たちにメアリー・ハウィットの本、『Our Cousins in Ohio』を一冊買い与えたかについての彼らの物語を考慮しましょう。この本には、「自由になった黒人たちの隣人として暮らし、子どもたちが奴隷州との境界に近い緑豊かな田舎で遊ぶイギリス人家族の生活」(381ページ) という肖像が描かれています。デズモンドとムーアは、ダーウィンもこの本に反応して移住するという夢想を抱いていたと主張し、彼は、

 

「いちばんよさそうなのは中部の州だ」と考えていた。ニューヨークやペンシルヴェニア、それにオハイオなどの準州で、ニューイングランドの俗物根性やライエルの愛する南部とのあいだに位置する州だ。
[訳注: アメリカの歴史に詳しくないので良く分からないのですが、ニューヨーク、ペンシルヴェニア、オハイオはかつて準州だったのでしょうか。日本語訳で「準州」となっているところは原文では「free soil」で、奴隷制に反対の州を指していると思われます。したがって「自由州」などとした方が原文の意味に合っているかもしれません。]

 

付随する巻末注は、書簡集の第4巻 (362ページ) を参照しています。そこには、1850年10月にダーウィンが従兄弟のウィリアム・ダーウィン・フォックスに宛てた文章があります。ダーウィンは、8人目の子供が生まれようとしていることを記しながら、次のように軽口を叩いています。

 

私はしばしば、オーストラリアや、私が最も好きな北アメリカ中部の州へ出発するのがいかに賢明かと思索を巡らせています。

 

次いで彼はすぐに、梨の木について尋ねたフォックスの質問に話題を変えました。

全く関連性はない

アメリカに移住するかもしれないというダーウィンの簡潔な思索は、奴隷州と自由州の違いとは全く関連がありませんし、彼はハウィットの本についても何も言及していません。しかしもっと問題なのは、デズモンドとムーアの「ニューヨークやペンシルヴェニア、それにオハイオなどの準州で、ニューイングランドの俗物根性やライエルの愛する南部とのあいだに位置する州だ」という注釈です。ダーウィンはそんなことは言っていませんし、示唆してもいません。デズモンドとムーアは、手紙からの実際に引用した簡潔なフレーズを使って、ダーウィンの言葉を言い換えているような印象を受けます。現実には、ダーウィンは単に自分の多くの子供たちが経済的な機会を見出せるかについて懸念し、オーストラリアやアメリカがそれを提供してくれるかもしれないと思っていました。

 

これらは、デズモンドとムーアが奴隷制廃止論者としてのダーウィンの肖像を作り上げた多くの例のうちの2つに過ぎず、その裏付けは、彼らの論議とはほとんど無関係な一次資料の引用という威圧的な器具により貧弱になっています。読者には、引用された情報源が文中でなされている主張を裏付けていると信頼する権利があります。しかし、ほとんどの読者は、巻末の800以上の注に埋もれた不明瞭な文献を確認することはないでしょう。彼らは私に会ったことはありませんから!

 

今後の投稿では、デズモンドとムーアの修史的方法論と、それがダーウィンの「聖なる大義」にどのように関わっているかについて、さらに多くの例証を見ていくことになるでしょう。