Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

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ダーウィンと「エア事件」: 憶測の物語

This is the Japanese translation of this site.

 

ロバート・シェディンガー

2023/3/20 15:27

 

私は一連の投稿で、エイドリアン・デズモンドとジェームズ・ムーアの著書『ダーウィンが信じた道 進化論に隠されたメッセージ』についてコメントしてきました。今回はシリーズの第4部です。第1部第2部第3部はこちらをご覧ください。

 

1865年10月7日、ジャマイカで反乱が勃発し、18人の官吏と民兵が解放奴隷の住民の一団に殺害されました。これに対し、ジャマイカ総督エドワード・ジョン・エアは、黒人住民に対する残忍な弾圧を認可し、439人の反乱者を殺害し、600人以上を鞭打ちにし、1,000軒以上の農民の家を焼き払いました [訳注: 邦訳の『ダーウィンが信じた道』では、エア総督を「アイアー」と訳出していますが、日本語では「エア」と呼ばれることが多いようですので、ここでは本書からの引用を除いてエアに統一します。]。この事件の知らせがイギリスに伝わると、ジョン・スチュアート・ミルのような奴隷廃止論者に共感する人々が、エアの暴力的な行動に抗議するためにジャマイカ委員会を立ち上げました。ダーウィンもこの委員会のメンバーだったようです。

 

ジャマイカ委員会の活動にもかかわらず、1866年8月、イギリスへ帰還したエアは多くの人々に英雄として大歓迎され、彼の船が停泊していたサウサンプトンでは、彼を讃える宴会が催されました。サウサンプトンは、ダーウィンの長男ウィリアムが銀行員として働いていた場所でもありました。『タイムズ』紙はこの宴会についての記事の中で、出席した著名人の名前を列挙しましたが、そのリストの中に驚くことに「ダーウィン」の名前が含まれていました。

 

デズモンドとムーアは、この「エア事件」を題材に、ウィリアムがエアを明白に支持したことが、いかに父と息子の劇的な対決につながったかを物語っています。彼らはまず、『タイムズ』紙が発表した宴会の招待客リストに「ダーウィン」の名前を見たときのダーウィンの反応を鮮明に描き出します。

 

ウィリアムだ、と父は胃に苦いものが広がるのを感じた。二七歳になった長男のウィリアム・エラズマス・ダーウィンは、幼いころから父に植物学の手ほどきを受け、父と同じようにケンブリッジ大学に父が住まった下宿屋から通い、父の口利きでサウサンプトンの銀行の役員になっていた。そのウィリアムが、黒人の家族を破壊し虐殺した無慈悲な暴君を称賛する集まりに、ダーウィンの名前を貸してしまったのだ。ダーウィンがそうした残虐な行為を描写した『ビーグル号航海記』の発行部数はすでに一万部になっている [訳注: この訳文は、原文の「Darwin’s worst nightmares teemed with such atrocities.His Journal of Researches had confessed as much, all 10,000 copies in circulation.」という2つの文を1つにまとめたもののようです。]。それなのに、「タイムズ」によれば彼の長男は悪魔とともに食事をしたという。(558ページ)

 

デズモンドとムーアの散文の優雅さは否定できません。しかし、これらは空想的な憶測なのか、それとも現実に基づいたものなのでしょうか?確かめてみましょう。

2つの引用源

デズモンドとムーアはこの一節について2つの引用源を提示しています。1つは書簡集第9巻に掲載されている手紙、もう1つは第13巻にある手紙です。どちらもダーウィンが息子のウィリアムに宛てて書いた手紙ですが、ウィリアムがエア事件と関係している可能性については何も言及していません。実際には、どちらの手紙も1861年 (エアの宴会の5年前!) に書かれています。これらの手紙は、サウサンプトンでのウィリアムの銀行員としての経歴を示す文献となるだけです。しかし、これは引用するまでもない周知の事実です。『タイムズ』紙の報道に対するダーウィンの反応についてのデズモンドとムーアの憶測には情報源が欠けたままであり、歴史というよりも想像であると考えるべきでしょう。

 

想像はそれだけにとどまりません。デズモンドとムーアは続けて、ウィリアムが1866年9月22日から24日の週末にサウサンプトンからダウンに帰ってきたことを記しています。これはエマの日記によって確認された事実です。この訪問の間に、「歓迎会にウィリアムが出席したのかどうかを面と向かって話し合う (561ページ)」と語られています。巻末注は、ダーウィンの手稿DAR 112.2を参照しています。これは、1882年に父が亡くなった直後にウィリアムが父について書いた回想です。ウィリアムは叔父のエラズマスの家で開かれた会合 (日付は明記されていない) で、ウィリアムがジャマイカ委員会について冗談を言い、父を怒らせたという記憶を語っています。ウィリアムはまた、エアのための宴会に出席したことを否定していますが、ダウンハウスでの劇的な対決については何も言っていません。

 

エア事件をめぐって父と息子の間に緊張があったのは明らかですが、デズモンドとムーアの「ダウンハウスで面と向かって話し合う」という劇的なシーンは、作られた神話のように思えます。

作られた神話は続く

デズモンドとムーアは続けて、ウィリアムが宴会への出席を否定したことを記し、こう書いています。

 

ウィリアムはほんとうに歓迎会に出なかったのだろうか?ダーウィンは、ハントやアガシが人種を不当に扱っていること以上に、ウィリアムの問題に悶々とした。彼はここしばらく体調がよかったのに、週末にウィリアムに問い質したせいで [訳注: より原文に忠実に訳すと、「週末の対決の後で」]、月曜の朝には数か月ぶりに「めまいと吐き気が戻ってきた」。(562ページ)

 

巻末注はダーウィンがジョセフ・ダルトン・フッカーに宛てた1866年9月25日の手紙を指し示していますが、この日は、まさにウィリアムとの「対決」の翌日の月曜日でした。この手紙の中で、ダーウィンはウィリアムについても、エア事件についても、彼の健康状態についてさえ、何も言及していません。手紙は簡素なもので、博物学のさまざまな論題についての一連の手短なコメントと、姉のスーザンが死期を迎えていること (彼女は1週間後に亡くなった) についての手短な告知が含まれています。この手紙が引用される理由は、デズモンドとムーアの憶測が事実に基づいているように見せるため以外には見当たりません。

 

しかし、デズモンドとムーアは、エア事件とウィリアムの関与の可能性を、ダーウィンにとって重大な関心事と見なすことをあきらめようとはしません。彼らはロバート・モンシー・ロルフを登場させます。彼はクランワース卿の称号を持ち、奴隷廃止論者の貴族で、ダウン村の慈善団体に定期的に寄付をしていました (ダーウィンはこの慈善団体への寄付の帳簿係でした)。デズモンドとムーアは次のように続けます。

 

マウントベイのできごとは、奴隷解放から三〇年たってもまだ農園主が奴隷制の「重荷」を島に負わせているように、クランワースには思えた。クランワースは間違いなくダーウィンに共感していたから、『タイムズ』の中傷記事についてダーウィンから苦情を聞かされていた人物だと思われる。彼はほんの数か月前まで大法官で、リベラル派が退陣していなければ、アイアー前総督の裁判の席についていたかもしれない大物だ。(563ページ)

 

クランワース卿の立場と心情を考えて、デズモンドとムーアは、「イギリスの司法の長だった人物にまで私的な苦情を打ち明けるほどに、ダーウィンはこの問題に頭を悩ませていたのだろう」と憶測を述べます。ダーウィンの私的な苦情をどうやって知ることができるのでしょうか?デズモンドとムーアは、書簡集第10巻と第14巻の2通の手紙を引用しています。読者には、これらの手紙にクランワースに打ち明けたダーウィンの私的な苦情が書かれていると期待する権利があります。

 

さて、最初はクランワース卿からダーウィンへの1862年11月28日付 (エア事件の4年前) の手紙です。これはクランワースがダウンの慈善基金への小切手を添えてダーウィンに送った簡潔な通知に過ぎません。2番目の手紙も同様に、1866年12月8日の、ダウンの慈善事業への別の支払いに伴う、クランワースからダーウィンへの簡潔な注記です。デズモンドとムーアは、クランワースがダウンの慈善事業に定期的に寄付していたという平凡な真実を文書化することには成功しましたが、エア事件についてダーウィンがクランワースに私的な苦情を打ち明けたというより重要な歴史的事実は、文書化された歴史的事実のように (引用のおかげで) 見せかけた想像の別の事例であるように思われます。

情報源に裏付けなし

ウィリアムは本当に宴会に出席したのでしょうか?それはわかりません。しかし、ダーウィンがこの可能性に憤慨して、ダウンハウスでウィリアムと直接対決し、そのストレスで体調を崩し、クランワース卿の助けを得たという考えは、デズモンドとムーアが引用している資料には何の裏付けもありません。この物語は歴史小説として書かれたように見えます。

 

最後の投稿では、稚拙な修史的手法の追加の例をいくつか共有し、デズモンドとムーアをファクトチェックしたこの演習から学んだことの、より大きな重要性について考慮したいと思います。