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2023/5/24 11:37
私たちは皆、投影という心理的メカニズムについて聞いたことがあるでしょう。つまり、自分の性格や人格の側面に不安を抱いている人は、しばしば自分が認知した欠点を他人が示していると非難するのです。例えば、自分の知的能力に不安を抱いている人は、他人が愚かであるとか、情報通でないと非難する傾向を持つようになるかもしれません。投影は、強硬な無神論的反対者がIDに向ける批判を集中させるための完璧なレンズであることが判明しました。
IDへの一般的な非難の1つの中心には、IDが宗教的な基盤を持っていると考えられていることがあります。IDは疑似科学に過ぎないのだから、科学の旗印の下に宗教的アジェンダを推進しようとしているに違いない、という批判が展開されます。IDの推進者 [訳注: 原文では「ID opponents」つまり「IDの反対者」となっているのですが、文脈からしてこれはID proponentsの誤植と思われます。] は、疑うことを知らない学生たちに科学の教室で布教するための宗教的十字軍に携わっているとみなされています。
とっくに経験済みです
IDの文献に少しでも親しんだことのある人なら、この特徴付けがどれほどひどい歪曲であるかに気づくでしょう。しかしこれは強力な歪曲であり、私自身もその餌食になったことがあります。1990年代後半、私が通っていた教会のある女性が、マイケル・ベーエの『ダーウィンのブラックボックス』を私に紹介しようとしたときのことを、私ははっきりと覚えています。この女性は宗教的に少し狂信的だと思った私は、科学的には何の価値もない本だろうと思い、彼女の薦める本を単に退けました。それから15年以上が経ち、実際にこの本を読むことを決意し、IDの論議について私がいかに誤ったことを知らされていたかを発見したときの私の衝撃を想像してみてください。IDは、経験的証拠を基礎として自立できる、科学的実質のある理論です。そして、この科学的実質の土台があるからこそ、反対者たちは動揺し、投影の技術に至るのです。
科学を装ってイデオロギー的アジェンダを推進する者がいるとすれば、それはリチャード・ドーキンスです。彼は、現実には証拠に基づいてIDを払拭することができないことや、自分が愛する無神論的ダーウィニズムの証拠的基礎の不安定さを知っているので、彼が認識する敵に対し、イデオロギー的な思惑があると非難することで、自分の不安を投影せざるを得ません。しかし、ドーキンスがID支持者の宗教的狂信とされるものを攻撃すればするほど、彼自身の反宗教的狂信の深さを露呈することになります。同様のある種の投影は、サム・ハリス、ダニエル・デネット、ジェリー・コインといった他の高名な無神論的進化論者の著作でも起きています。
ここで「デイブ教授」ファリーナに話を戻します。このような心理的投影の力学が、最近ライス大学で行われたファリーナとジェームズ・ツアー博士との間で行われた、生命の起源研究の状況についての「討論」よりも顕著に開陳されたことはありません。もちろん、これを討論と呼ぶのは、棒人間の絵をモナリザと呼ぶようなものです。確かにツアー博士は論点について討論しに来ました。ファリーナは絶対にそうではありませんでした。
言語道断の人格攻撃
ツアーがホストとしてゲストのファリーナに敬意を示し、討論の冒頭で贈り物を贈った後でさえ、ファリーナは言語道断の人格攻撃を開始し、ツアーを嘘つき、詐欺師、有機化学の基本についてまったくの無知だと繰り返し非難しました。ある時点で、彼の嘲りはあまりにも深刻になり、ツアーの研究を真剣に受け止めている聴衆を「ファッ〇〇な馬鹿」だと非難しました。ツアーが生物の自然発生の理論の複雑さに討論の焦点を当てようと試み続けても、ファリーナは無礼で、独善的で、自惚れており、近くに立っていた卓越した科学者に対し度を越して見下した態度を取ったままでした。要するに、ファリーナのパフォーマンスは古典的な投影の事例、投影の極端な事例でした。
ツアーは極めて信心深いかもしれませんが、生物の自然発生に対する彼の批判は根本的に経験科学に基づいています。ある程度の知的な指示なしに、生命が非生命からどのようにして出現したかを考えることには非常に深刻な困難がありますが、それは明らかにファリーナの闘争的な無神論的世界観を脅かすものです。このことを認めたくない彼は、代わりに自分の不安をツアーに投影しているのです。ツアーのような才覚ある科学者が有機化学の基本について無知だという言語道断な言いがかりをつけることで、ファリーナは彼自身の有機化学の知識が本当はどれほど不確かなものであるかを露呈しています。また、ツアーは詐欺師だというファリーナの非難は、自分を生物の自然発生の専門家だと偽ろうとしている彼自身の立場 (あるいはその欠如) を際立たせているだけです。
見るのは辛いが、その価値はある
ツアーとファリーナの「討論」は見るのが辛く、何度も止めようと思いました。しかし、事故現場に居合わせた人のように、目をそらすことができず、2時間ずっと身を委ねることになりました。でも、そうしてよかったと思います。もし私が心理学の教科書の投影の章を書くように頼まれたら、デイブ・ファリーナの言語道断の無礼なパフォーマンスは、その物証Aになるでしょうから。