Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

自然において特別な場所を持つ人間は、火を使うようにデザインされた

This is the Japanese translation of this site.

 

マイケル・デントン
2022/5/24 6:52

 

要約: 我々が持つ火おこしへの独特な適正についての証拠により、描像が完成する。自然は人間に独特な仕方で適合しており、我々を念頭に置いてデザインされている。ユダヤ-キリスト教の伝統である人間中心的主張が立証されている。

 

編集部注: 生物学者マイケル・デントンの新著『The Miracle of Man: The Fine Tuning of Nature for Human Existence (Privileged Species Series) (English Edition)』が発売されました。このエッセイは、第11章「The Fire-Makers」から書き改めたものです。

 

私の本『The Miracle of Man』で示したように、石器から現在の技術文明まで我々の先祖がたどった道は、大ざっぱに言えば、唯一可能な道であった。そしてそれは、自然界における事前環境適合性のもう一つの驚くべきアンサンブルによってのみ可能な道であった。「選択された道」が独特だったのみならず、我々自身の生物学的デザインに非常に近い特別なタイプの独特な存在だけが、技術的啓発のために肝要な最初の一歩、すなわち火おこしへ踏み出すことができたであろう。

 

第一原理から、火を作り出して制御する能力を持つ生物は、呼吸と燃焼の両方を支える酸素に富んだ大気中に生息する好気性の陸生空気呼吸生物種であるはずで、この火をおこす存在はその仕事を遂行するために人間の知性のようなものを持っていなければならない。他の生物種、例えばイルカ、オウム、アザラシ、類人猿、カラスなどが知性や注目に値する問題解決能力を有していることは事実だが、知られている限り、人間の知性に近いところにいる生物は他に存在しない。

 

問題となる生物種はまた、火を作り出し、それを使いこなし、冶金を経て高度な技術へと続く経路をたどることができるようになるために、移動性であり、高い視力を有する必要がある。

 

言語を有する社会的な生物種であることは、火を付けて維持するために必要な木材燃料を切ったり集めたりなどの、小さな部族集団の間で定期的に火をおこして制御することに伴う周辺作業にも不可欠であっただろう。他の多くの生物種は社会的であっても、抽象的な概念を含む情報を伝達するために人間の言語のようなふさわしい遠隔コミュニケーションシステムを有していない。

 

陸生、空気呼吸、視力、移動性、知性、社会性、言語能力に加えて、火をおこす者には適切な解剖学的構造も必要である。そして、人間中心的な主張によれば、地球上のすべての生物のうち、人間だけが火をおこして制御するための適正な体格を適切な仕方で賦与されている。キリンもゾウもオウムもネコもチンパンジーも他の陸生生物も、人間以外は火を使いこなすための適切な解剖学的構造を持っていない。

手と腕

ボーイスカウトガールスカウトが知っているように、2本の棒をこすり合わせて火を付けるには、かなりの手先の器用さと粘り強さが要求される。また、映画『キャストアウェイ』でトム・ハンクスが演じたキャラクターが見つけたように、人間の手の優れた操作力をもってしても、2本の木の棒をこすり合わせるような伝統的な摩擦方法で火を付けることは困難である。しかし、多くの人間は、練習や、消防訓練などの簡単な方策を使えば、火を付けるのに必要な技術を身につけることができる。

 

地球上の他のどの生物種も、人間の手と同じほどに、火を付けて維持し、自然界を知的に探査して操作することができる器官をまったく持っていない。この適応の驚異に関する最も初期の、そして今でも最も興味深い議論の1つは、1世紀のギリシャ人医師ガレノスによってなされた。

 

人間は賢い動物であり、地上で唯一神的な動物なので、[自然は] あらゆる防備用の武器の代わりに手を与えた、あらゆる 技術のために必要であり、・・・ではまず、自分たちのあの第一の部分を検証しよう、単にそれが役に立つかどうか、またそれが賢い動物にふさわしいかどうかではなく、もしそれが違うようになったとしてもより良くはならない、そのような構造であることを確かめよう。

 

続いてガレノスはいくつかのページを割いて、人間の手の天才性を詳細に説明している。ある時点で彼は次のように宣言している。「自然の技術に感嘆しないような者は、愚かであるかあるいはその人が個人的に変わっているかのいずれかである。・・・手により良いものを与えるはずの働きを考慮もしないし、あるいは手が別の構造をしていればもっと良いだろうと期待する人は愚かであると」。

 

手の完全さは19世紀の自然神学者の間で人気の論題であった。その一人、オックスフォード大学の医学教授ジョン・キッドはガレノスから大量に引用した。チャールズ・ベルもブリッジウォーター論集の中で手について叙情的になり、古代ギリシアの思想家の一人を引用して次のように述べている。「手の完全さを見ると、アナクサゴラスと同じ意見を抱いた哲学者たちがいたとしても驚くに値しない。すなわち、人間の優越性はその手によるものであり…我々は人間の手に置いて、道具としてのあらゆる完全性を完成させた」。

 

我々のいとこである大型類人猿だけが近い存在である。しかしチンパンジーとゴリラの手は、部分的に他の指と向かい合うことのできる親指を持っているが、完全に向かい合うことのできる親指を持つ人間の手に比べて、微細な運動や制御への適応ははるかに劣る。チンパンジーの中には、ある種の作業に対して注目に値する手先の器用さを示すものもいるが、人間の手の手先の器用さには匹敵できない。このことは、動物園でのチンパンジーの「お茶会」を見ると明らかである。食事という仕事について、我々はほとんど考えもしないが、彼らにとっては滑稽な挑戦となるのは、手先の器用さが限られているからだということを証明している。

 

科学ジャーナリストのクリストファー・ジョイスは、2010年のNPRの記事で、人間の手の持つ独特の能力を概説し、彼がインタビューした人類学者のエリン・マリー・ウィリアムズとカレー・オーアの2人の洞察を引用した。

 

さて、類人猿は道具を作ります。科学者たちはそうするようにカンジと呼ばれるボノボを訓練しましたが、カンジはあまり得意ではありません。

 

「彼は動きを抑えることができません」とウィリアムズは言います。なぜなら彼は石をつかむことができず、親指が十分に長くなく、他の指が長すぎて不器用だからです。彼は手首を動かすことができません。手首を伸ばしてこの重要な「スナップ」を効かせることができないのです。彼は散らかしてしまいます。

 

・・・人類学者のカレー・オーラ・・・は、3頭の類人猿と1人のヒトの手の骨格をレイアウトしました。類人猿の手は巨大で、オランウータンの手はキャッチャーのミットのようです。しかし、親指は小さくて横に広がっており、他の指は長く曲がっています。それらは強力に見えますが、オーラによると、その強さは手首から指まで垂直方向に向かっているそうです。これは木の枝にぶら下げるのには良いのですが、他のことにはあまり良くありません。

 

・・・人間の手は小さく、異なった働きをします。それを例証するために、オーラは2フィートの棍棒を私に渡します。

 

「ここで、小指を使わずに、他の指だけでこれを持ってみてください」と彼は言います。それは類人猿が棒を持つ方法です。私はそれを振ろうとしましたが、そうするとそれは私の手から飛んでいっていまうことに気がつきました。

 

私の手の力は掌に行き渡っています。私の親指は強く、小指も同様です。その親指を他の指に巻きつけて、小指で下の握りを安定させます。類人猿はそれをうまく操ることできません。

 

他の指と向かい合っている親指と広い指先は、叩き石のような丸い石を、類人猿よりも制御しやすく握れることを意味しています。

 

私は究極のツールメーカーである手を持っています。

 

2フィート半の長さの非常に可動性の高い付属器官、すなわち人間の腕の先端に手が取り付けられていることは、その普遍的な有用性に寄与し、手が体からある程度離れた物体を操作することを可能にしている。これは火を操作する際には少なからず有利である。さらに、手が腕の先端に位置しているので、その操作の動きを目でたやすく観察できる。目は手の動きを容易に観察できるように、頭部に前方に向かって置かれている。

 

直立二足歩行と人型のデザインにより、人間の腕と手は歩行機能から解放され、微細な運動制御を必要とする繊細な活動のために適応することができるようになったのである。他の類人猿は火を操るのに十分な長さの腕を持っているが、その腕と手には道具を巧みに操る仕事にとって障害となる阻害する別の役割がある。大型類人猿はすべて基本的に四足歩行動物であり、より正確には19世紀にリチャード・オーウェンが定義したナックルウォーカーである。直立二足歩行と人型のデザインにより、人間の腕と手は歩行機能から解放され、微細な運動制御を必要とする繊細な活動のために適応できるようになっている。霊長類の中では、習慣的な二足歩行の姿勢はヒトとほんの一握りの化石人類種にしか存在しない。この二足歩行の姿勢によって我々の腕と手は独特の操作機能を獲得することができ、その結果我々の祖先は火を付けて制御することができるようになり、木を切ったり集めたりなどの、火を起こすことに関連した周辺活動、さらに鉱石の採掘や窯の建設などの冶金学の発展に関連した活動を行うことができるようになった。非常に多様な道具や器具を構築する能力については言うまでもなく、その使用は技術の発展や科学知識の進歩に決定的に重要であった。

適正なサイズ

手のような優れた操作器官や、腕と手を純粋に操作する作業のために自由にできる直立二足歩行する人型の形態を有していることは、それ自体では不十分である。私たちのサイズが適正でなければ益するところはないのである。私たちとほぼ同じ寸法の人型生物だけが、たやすく火を起こしたり制御したりすることができる。例示するため、ごく小さなものから始めて、徐々に大きくしていこう。マーベル・コミックの『アントマン』のようなアリサイズの人型生物では小さすぎて、炎から体長数個分も離れないうちに熱で死んでしまうだろう。フー・ベリーが指摘するように、「アリは火を使うことができない。なぜなら単純に、最も小さく安定した火は、アリよりはるかに大きくなければならないからだ。したがってアリは火を維持するのに十分な燃料を火の近くに運ぶことができない」。

 

人型のデザインと我々に独特の解剖学的適応を備えていても、身長2フィートの小柄な人間では、火を操る際には大きな困難に直面するであろう。最近発見された小型の人類種ホモ・フローレシエンシスはまさしく火を使っていたが、報告されている身長3.5フィートより小さい種であればかなり困難であるように思われる。最近発見された小型のヒトHomo floresiensisは確かに火を利用していたが、報告されている3.5フィートよりも小さい種ではかなりの困難があるように思われる。

 

より小さいことにはもう一つの帰結がある。『American Scientist』の「The Size of Man」という魅力的な記事で、著者のF・W・ウェントは、人間よりはるかに小さい生物は、火おこしや冶金に不可欠な原料を調達するのに必要な運動エネルギーを生成する能力に欠けると指摘している。これは、ある質量が特定の距離を移動する (ハンマーの頭が釘を打つ、斧が木の幹を打つ、つるはしが鉱床を打つ) ときに生成される運動エネルギーが、通過距離の4乗で変化する(運動エネルギー = KL4) ためである。これは、ウェントが説明するように、「体のサイズに比例した大きさの槍や棍棒を7フィートの巨人が扱うと仮定すると、その衝撃は普通の5フィート8インチの人間が扱うときの4倍になる・・・しかし普通の人間と比較すると、3歳の子供や3フィートの生物一般の打撃は25分の1のエネルギーしか産み出せず、獲物を殺したり大きな動物を狩ったりするのには全く不十分である」ことを意味する。したがって、「3フィートの人間は、固い岩の中で木材を切ったり鉱山を掘削したりすることはできない」。

 

ティーヴン・ジェイ・グールドも同様に体のサイズの問題を取り上げ、運動エネルギーは長さの数桁のべき乗で増加すると記した。彼は続けて「ワグナーの楽劇『ラインの黄金』の中で、残忍なアルベリヒの鞭の下にあえぐ哀れな小人たちに対して、私は以前から特別な同情を寄せてきた。彼らの小さな体ではアルベリヒが要求する高価な鉱物をつるはしで掘り出すことは無理なのである」と告白している。

 

それで、我々のサイズは、火に近づいたり、高温の火を燃やすのに必要な木材を切るのに必要な運動エネルギーを生成したり、岩石から金属鉱石を採掘したりするために適正なのである。もし我々がもっと小さければ、火をおこす者にも冶金学者にもなれなかったであろう。

 

その一方で、木材を切り、鉱石を採掘するために必要とされる運動力が、我々と同程度の寸法の生物が生成できる力をはるかに超えることがないのは幸いである。はるかに大きな人型の存在はより大きな運動力を発揮できるが、例えば高さが我々の2倍である二足歩行の霊長類のデザインは、運動力と重力によって厳しく制約され、構造的に問題がある。

 

なぜだろうか?1つには、質量 (および重量) が長さの3乗(L3) で増加するのに対して、骨の強度と筋肉の力は長さの2乗 (L2) でしか増加しない。このことについてJ・B・S・ホールデンは、エッセイ「On Being the Right Size」の中で、彼に特有の明瞭さを伴いつつ言及している。

 

高さ60フィートの巨大な男を考えてみよう。私の子供のころに読んだ『天路歴程』の挿絵にあった巨人の教皇や巨人の異教徒の身長に相当する。これらの怪物はクリスチャンの10倍の高さであるだけでなく、10倍の幅と10倍の厚さがあり、その総重量は彼の1000倍、つまり約80トンから90トンもあったのだ。不幸にも、骨の断面積はクリスチャンの100倍しかなく、巨人の骨は1平方インチごとに、人間の骨の1平方インチにかかる重量の10倍を支えなければならない。人間の大腿骨は人間の体重の約10倍で折れるので、教皇と異教徒は一歩踏み出すたびに太ももが折れることになる。私が覚えている絵で彼らが座っていた理由がこれであることに疑いの余地はない。

 

大きすぎることには、運動エネルギーがL4に比例するという事実から生じるもう1つの運動学的制約がある。ウェントは次のように説明している。

 

運動エネルギーの数値は、実際に人間の最適なサイズを知る手がかりを与えてくれる。身長2mの人間は、つまずいて地面に当たったときの運動エネルギーが、歩くことを学んだ小さな子どもの20~100倍になる。これは、子どもが歩くことを学んでも安全である理由を説明している。大人はつまずいたときに骨折することがあるが、子どもが骨折することはない。もし人間の身長が現在の2倍であったなら、転倒時の運動エネルギーは非常に大きくなり (普通のサイズの16倍)、直立して歩くのは安全ではなくなる・・・。大型哺乳類は4本足で安定しているので、もっと高くなることができる。しかし、転倒すると容易に骨折する。

 

ティーブン・ヴォーゲルは『Comparative Biomechanics』の中で、「牛や馬などにとってつまずきは潜在的な危険であり・・・我々は体重が少なくても同様の危険性がある。人間の直立姿勢は体重に比べて異常に大きな身長を我々にもたらしている」と述べている。彼は「大きければ大きいほど、倒れるのもひどい」という古いことわざを引用して、より大きな点を要約している。

 

その結果、つまずいたり、転倒したりすると、教皇や 異教徒にとっては大惨事となる。彼らの巨大な頭 (人間の頭の1000倍の体積) は、頭蓋骨が粉々になり、脳が分解されるほどの勢いで地面に激突するだろうからである。

車輪は回転した

人類が高度な技術文明への特異な道に沿った最初の運命的な一歩を踏み出すことを可能にした、我々に独特な火おこしへの適合性の証拠と共に、この描像は完成する。自然は、我々の生物学的存在、好気的な陸上生活、サイズやボディプランだけでなく、火をおこすという独特な能力、そして冶金学を通じて高度な技術と自然に対する深遠な理解への特異な道を歩むことに対しても比類なく適合しているのである。

 

この主張は、所与の自然法則と宇宙の構造の下で、炭素と水に基づく生物とは根本的に異なるタイプの 生物学的生命の可能性、火をおこし制御することのできる根本的に異なるタイプの知的存在の可能性、高度な技術と世界の深い知識への根本的に異なるルート、火おこしと冶金を通過しないルートの可能性を示すことによってのみ挑戦され得る。しかし、この種の信頼できる代替案はこれまで提案されたことがない。地球上の全生物の基本構成要素である標準的な炭素ベースの細胞とは根本的に異なる細胞について、よくできた青写真を提供する本や論文は1つも存在しない。炭素ベースの生命のドメインで、高い代謝率と高い知能を有する現代人に匹敵する高度な生物について、生物学的代替デザインを記述した論文や書籍は1つも存在しない。火をおこしたり制御したりする能力のある高度で知的な好気性生物についての詳細な代替デザインが提唱されたこともない。高度な技術や究極的な科学知識に至る、実質的に異なる経路を記述した論文も一つもない。もちろん、ヒューマノイドというテーマの変形版を想像することは可能であり、中には他よりも現実的なものがある。しかし、その変形判が信頼に足るものである限り、それは人間の形態に非常に近くなるであろう。

 

多くの謎が残っているとはいえ、21世紀の最初の数十年で、今や我々は少なくとも、トーマス・ハクスリーの「自然の中で人類が占める位置と、万物の宇宙との関係」という問いの中の問いに確信を持って答えることができる。現状では、自然の秩序が地球上の生命や人間に近い生物学的存在に特有の形で適合していることを示す証拠が増大している。この見解は、伝統的なユダヤ-キリスト教の枠組みを証明はしないが、全体的に調和している。多くの人々の精神において、16世紀に地球中心型宇宙モデルの終焉とともに始まった人類の自然からの放浪自体が、万物の根底にある合理性、ロゴスが実際に「人の肉体において明らかにされた」ことを示す証拠が積み重なっていくにつれて、その終焉を迎えつつあるようである。

 

車輪は回転したのだ。『The Miracle of Man』で示したように、19世紀の化学の開花に始まる科学の進歩は、20世紀を通じて勢いを増し続け、そして今や21世紀に入ると、古代の契約を立証し、人類は中世の学者たちが信じていたように、その本質的存在の奥深くで、自分が不可欠な部分である偉大な大宇宙のあらゆる面が反映されていることが明らかになった。そして、歴史の最高の皮肉の一つは、自然における人類の特別な位置の否認という、現在の世俗的な文化と時代精神の基礎的な否認が、今やますます時代遅れで経験的な裏付けを欠くようになっていることである。