Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

我々はいかにしてダーウィンを超え、人間の奇跡へと至るのか

This is the Japanese translation of this site.

 

マイケル・デントン
2022/5/11 6:47

 

要約: 人類は宇宙の偶然による副産物であるという科学的ビジョンが優勢になったときでさえ、新しい科学革命の最初の種は芽生えていたのであり、人間の存在のための自然のファインチューニングを明らかにしていた。

 

編集部注: 今週、生物学者マイケル・デントンの新著『The Miracle of Man: The Fine Tuning of Nature for Human Existence (Privileged Species Series) (English Edition)』が発売されます。このエッセイは、デントンの新著の冒頭の章から書き改めたものです。

 

生物学の主流がダーウィニズムを受け入れたことで、西洋文明は、古代ギリシャのデモクリトスをはじめとするソクラテス以前の哲学者たちの原子論、唯物論、多世界論へ戻る最後の一歩を踏み出すことになった。ダーウィンのパラダイムが生物学と科学の主流を掌握するにつれ、古い目的論的・組織論的宇宙のすべての痕跡、人類や地球上の生命を物事の秩序の中で特別または特権的な位置に置くすべての観念が、主流の学問的討議から放逐されたのである。

 

主流の進化生物学者にとって、ダーウィンが最終的に解明したことが示唆するものは、フランスの生化学者ジャック・モノーがその唯物論者としての宣言『偶然と必然』の中で印象的に捉えられている。彼は、「私がこれからしようとする提示テーゼは、生物圏のなかには予見できる類別された物体ないしは現象はひとつも含まれないで、ただ、ある個別の出来事――その出来事は、たしかに第一原理と両立はしても、それらの原理から演繹されることはなく、したがって本質的に予見不能である――から成り立っている、ということなのである。・・・私が手に握っているこの小石を構成している諸原子の個々の配列が予見不能であるのと同じ理由であり、それ以上でも以下でもないのである」と書いた。

 

モノーによれば、人類は、その成り立ちも運命も知らない冷淡な宇宙に漂っており、無限の宇宙には人間中心的な偏見の証拠は微塵も現れていないとされる。その代わりに、ハーバード大学の古生物学者スティーブン・ジェイ・グールドは、我々は「偶発性の化身」に過ぎず、我々の種は「運のよい樹に偶発的に生じた大枝からありうべからざる幸運によって伸びた枝のさらにちっぽけな小枝・・・人類は一つの細目であり、・・・目的でも・・・ない。・・・広大な宇宙の中の・・・とてもありそうにない進化の一事件である」と述べた。また、天文学者カール・セーガンは、このことを「宇宙の音楽 (フーガ) の一つの声」と表現した。

付帯現象への降格

こうして人類は、中世の人間観で理解されていたイマゴ・デイ、すなわち神に似せて作られ、初めから予定されていた存在から、単なる付帯現象、多くの副産物の中の一つの目的外物に降格し、宇宙的余事以下の無意味な偶発事象になったのである。

 

このような現代の世俗的な自然観は、中世のスコラ哲学者たちの人間中心主義的な宇宙観から想像以上にかけ離れており、人類の思想史の中で最も劇的な知的変容の一つを呈している。

 

しかし、21世紀への途上で奇妙なことが起こった。

第二の革命

人類は宇宙の偶然の副産物であるという科学的ビジョンが西洋思想の中で優位な地位を固めていた頃、新しい科学的人間中心主義の最初の種が、1830年代のブリッジウォーター論集の中で芽生えていた。この大著には、水の生命への印象的な適合性についてのウィリアム・ヒューウェルの議論や、生命に対する炭素原子の特殊性についてのウィリアム・プラウトの議論など、19世紀の最初の四半世紀に有機化学が発展することによって明らかにされた内容が含まれている。そして皮肉なことに、『種の起源』(1859年) 出版後の数十年間、フリードリヒ・ニーチェが「ニヒリズムは戸口に立っている」と宣言したまさにその期間に、地球上の生命は結局、自然の秩序の中に「組み込まれた」特別な現象であり、ダーウィン的唯物論の時代精神が想定した深遠な時間と偶然性による事故とは程遠いことを示唆する新鮮な科学的証拠が蓄積し始めたのである。

2冊の重要な本

これらの発見、特に炭素のユニークな化学的性質については、他ならぬ自然淘汰による進化のダーウィンとの共同発見者アルフレッド・ラッセル・ウォレスが『World of Life』の中で探求している。ウォレスは、1911年に発表したこの著作で、自然環境が、地球上に存在する炭素系生命体のためにあらかじめ整えられていたことについて、さまざまな説得力のある示唆を与えている。

 

その2年後の1913年には、ローレンス・ヘンダーソンが傑作『The Fitness of the Environment』を出版した。この本は、基本的には同じ論議を、より学術的に詳しく提示したものである。ヘンダーソンは、自然環境は炭素ベースの生命にとって特別に適しているだけでなく、我々の生理的なデザインの存在にとっても、ある興味深い方法で適していると論じた。彼は、我々の生物学的デザインの存在に対する、自然界における環境適合性の特殊な要素として、水の比熱と蒸発による冷却効果という2つの熱的性質と、二酸化炭素の気体としての性質を挙げている。

 

20世紀の間に、ジョージ・ワルドやハロルド・モロヴィッツなど、より最近の学者たちは、ウォレスとヘンダーソンが言及した証拠に基づいて、適合性のパラダイムをさらに擁護してきた。ワルドは、炭素化学と光合成に対する自然界固有の環境適合性を論じた。モロヴィッツは、細胞エネルギー論に対する水の固有の適合性を論じた。

 

これらの発見は、目覚ましい変化の兆候である。私の新著、『The Miracle of Man』では、驚くような事前の環境適合性の集合体、その多くは創造の瞬間から自然の法則に明確に書き込まれているものが、我々の生物学を定義する主要な属性の実現を可能にしていることを記述して、人間の生物学に対する自然界固有の適合性の痕跡について、私の知る限り最も包括的な概説を提供している。グールド、モノー、セーガンの、人類は盲目的で目的のない自然の過程の単なる偶発的な産物に過ぎないという観念は、証拠によって終わりを迎えた。

物議をかもす、けしからぬこと?

現代科学の知見が伝統的な人間中心主義的世界観という解釈を現代において支持しているという主張は、多くの論者や批評家にとっては大いに物議をかもし、とんでもないことだと思われることには同意する。ここで、ある区別をすることが有用かもしれない。私の結論は物議を醸すものだが、それが基づくところの証拠は、少なくとも物議を醸すものではない。事実上すべての事例において、それらは関連する科学分野で強固に確立されており、今では全く議論の余地のない一般通念と考えられている。言い換えれば、私の著書で述べられている自然環境における並外れた適合性の集合体、我々の存在にとって不可欠であり、人間中心主義的な自然観についての私の擁護の基盤となっている集合体は、徹底的に実証された科学的事実である。そして、個々の木立から一歩下がって、ことわざにあるような壮大な森を眺めたとき、極言するなら、そのパノラマには圧倒されると言える。

 

私は『The Miracle of the Cell』の中で、周期表の多くの原子 (約20個) の性質が、地球上のあらゆる生命の基本単位である身近な炭素ベースの細胞において、極めて特殊で重要な生化学的役割を果たすための独特な事前適合性として現われていることを示した。そして、私が強調したように、これらの原子が特定の生化学的機能に対して事前に適合していたからこそ、最初の炭素ベースの細胞の実現が、どんな原因がその最初の組み立てをもたらしたかにかかわらず、可能になったのである。今回は、我々の生理的・解剖学的デザインの存在と、我々の存在に必要な事前の環境適合性の数多くの集合体に焦点を当てる。これは、我々の種が初めて地球に出現するはるか以前から存在していた事前適合性であり、著名な宇宙物理学者フリーマン・ダイソンの有名な告白、「私は、自分がこの宇宙の中の一人の異邦人のように感じてはいない。私は、宇宙を調べてその構造の詳細を研究すればするほど、宇宙はある意味でわれわれの出現を知っていたにちがいないことを、ますます見出すのである」につながる適合性である。

 

そして、自然の構造の中で不思議なことに予見されていたのは、我々の生物学的デザインだけではない。『The Miracle of Man』で示すように、自然は、火を起こすことから冶金、そして現在の文明の高度な技術に至るまで、我々に特有の技術的旅路についても、いわば驚くべき事前準備を整えていた。人間が最初の火を起こすずっと前に、最初の金属がその鉱石から精錬されるずっと前に、自然はすでに石器時代から現在に至る我々の技術的旅路のために準備され、適合していたのである。