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創世記は「神話的歴史」ですか?聖書のガイドとして、ウィリアム・レーン・クレイグの本は不十分です

This is the Japanese translation of this site.

 

ケイシー・ラスキン
2021/11/9 16:57

 

編集部注: ケイシー・ラスキンが、哲学者ウィリアム・レーン・クレイグの新刊を複数回に分けてレビューしていきます。これまでのレビュー全体はこちらをご覧ください。

 

ウィリアム・レーン・クレイグの新著『In Quest of the Historical Adam: A Biblical and Scientific Exploration』の最初の200ページは、神話の性質、古代近東の神話文学、創世記に神話的な要素が含まれているかどうかをどうやって判断するか、などの詳細な議論に大きく割かれています。これは私の専門外であり、ここEvolution Newsでもあまり網羅していない論題を提示するものでもあります。しかし、クレイグの神話に関する議論は、彼の本全体の50%を占めているので、どのようなレビューであっても、この問題を取り上げるべきです。そこで、インテリジェントデザインの科学とはかけ離れてはいますが、全6部のレビューのうち、今回はこの論題に充てることにしましょう。

「神話的歴史」?

クレイグの「神話」の扱いには微妙なところがあり、「神話」と呼ばれるものには必然的に偽りであることが伴うという一般的な固定観念を正すように注意しています。創世記の一部の要素、例えば系図などが歴史的なものとなるよう意図されたものであることについてのクレイグの論じ方には説得力があります。また、創世記1-11章には「誇張表現」が含まれているというトレンパー・ロングマンとジョン・ウォルトンの見解を否定している点も評価できます (127-128ページ)。彼の本のこのセクションで私が何よりも称賛するのは、創世記がアダムとエバは実在した歴史上の人物であると教えているというクレイグの結論ですが、この結論は新約聖書を考察するセクションでさらに強化されています。クレイグは自分の発見を要約して、クリスチャンは「すべての人類の源であり、これまでに生きたすべての人間の系譜上の祖先」としての「アダムとエバの歴史性を肯定」すべきであると論じています (363ページ)。クレイグがこの重要な結論を慎重に裏付けたことは賞賛されるべきです。

 

しかし、奇妙なことに、クレイグはアダムとエバに専念した本の中で、創世記の分析において、単に人類の両親について書かれていることを評価するだけではなく、もっと踏み込んでいます。彼は創世記の文学的ジャンルの精査に200ページ近くを費やし (繰り返しますが、この本の約50%です)、最終的に創世記1-11章には多くの神話的要素が含まれており、これらの章は「神話的歴史」を提示していると結論しています。彼の主張は、彼が「神話的歴史」の意味を再定義していると感じている聖書学者を満足させられないかもしれません。著名な聖書学者のジョン・オズワルトは、クレイグのこの言葉の使い方に大きな疑問を提起しています。オズワルトはインタビューの中で、「『神話的歴史』は矛盾語法です。神話は本来非歴史的なものです」と述べています。

「明白に偽り」の「空想的な要素」?

クレイグの著書の中に「創世記1-11章は事実上、歴史的に間違った記述をしている」という具体的な文章を見つけることはできませんが、注意深く読めば、彼はこれを信じており、主張しようとしていることが分かります。クレイグは、創世記1-11章には、彼の言葉を借りれば、様々な「矛盾」や「空想的な要素」が含まれていて、「文字通りに受け取るには明らかに異常なので明白に偽り」であると論じています (104、203ページ)。これが、創世記の一部が「神話」であるという彼の結論の主要な部分であることは確かです。

 

神は奇跡を起こせるので、クレイグは彼が神話的、「空想的」、「偽り」と考える要素から奇跡を除外することを注意深く正当化しています。しかし、クレイグはこのルールを一貫して適用しているわけではなく、ここでのクレイグの判断は主観的なものが多いようです。それは、スティーブン・ジェイ・グールドによる、「賢明な神」が生物学のある特徴を創造することがいかにありえないかという不信から来た疑わしい論議 (『パンダの親指』、20ページ) のように、合理的な神ならどうするかについての彼の個人的な感情に基づいているように見えるのです。例えばクレイグは、創世記3章で神が園を歩いたこと、創世記4章でカインの妻の由来が説明されていないこと、サタンが蛇を通して話したことなどが、「矛盾」や「空想的な要素」であると信じています。しかし、多くのクリスチャンはこれらの要素に何らかの問題があるとは見ていません。クレイグの主観的な分析によって、聖書の他の部分にある多くの物語、例えば出エジプト記エジプト人の魔術師が奇跡的なしるしを行ったり、福音書でサタンが特定の人物に取り付いたりする物語が同じような「神話的歴史」の運命をたどるのを防げると見るのも難しいことです。First Thingsの記事の中で、クレイグはこの論法について詳しく述べています

 

この説話の他の側面は、文字通りに受け取れば、モーセ五書の著者自身にとってさえ、空想的なものである。食べれば不死になったり、善悪の知識が突然生じたりするような実をつけた木が樹木園にあるという考えは、著者にとっては空想的だったに違いない。結局のところ我々は、食べた場合に神が自分の神意に反して不死や善悪の知識を超自然的に与えるような、奇跡的な果実を扱っているのではない。

 

これでお分かりでしょう。クレイグの主観的な判断では、知識の実は「空想的な要素」であり、したがって創世記は神話的歴史なのです。どうやら神は人間にこのような効果をもたらす果実を作ることを許されていないようです。クレイグは、神が奇跡を起こすのを妨げるために神に自然主義を課している場合には、当然のことながら拒否しています (105ページ)。しかし、聖書に記述されている超自然的な存在や要素は神だけではありません。クレイグは、他の超自然的な事象や要素、おそらく他の超自然的な存在によって引き起こされたものに対して適用される場合には、自然主義を誤って認めているようです。創世記は神話ではなく (「神話的歴史」でもなく)、歴史を表していると信じる多くのクリスチャンにとって、クレイグの論議は説得力に欠け、混乱を招き、失望させられるものでしょう。

創世記の天地創造の記述における神話?

「空想的な要素」に関するクレイグの他の論議の多くはそれほど主観的なものではありませんが、驚くほど不十分な分析に依存しています。例えば、クレイグは若い地球の解釈だけが創世記1-11章の解釈学的に可能な読み方であると結論しています。科学は若い地球を支持していないので、創世記が示唆する地球の若い年代は「明白に偽り」の「空想的な要素」であると彼は結論しています。要するにこれが彼の主張ですが、彼には、若い地球の支持者と古い地球の支持者の双方が、創世記1-11章の様々な解釈を様々な科学的モデルと調和させるために開発した一般的な方法を拒絶することが要求されます。

古い地球の創造論者の考え方についての誤り

古い地球の支持者である私は、創世記の一般的な古い地球的解釈にクレイグが向き合っていないことに失望しました。創世記1章の英訳では一般的に「日」と訳されているヘブライ語の「ヨーム」という言葉は、不特定の長さの期間を示すこともあるという標準的な論議には全く触れていません。クレイグは、創世記1章の事象の順序と主流科学の知見との間に概ね年代的整合性があることも認めていません。その順序とは、宇宙の起源、光の生起、地球上の陸地の形成、植物の起源、地球の大気を通した太陽の出現、魚の起源、鳥の起源、哺乳類の起源、人類の起源です。古い地球の支持者たちは、創世記と主流の宇宙論的タイムスケールとを調和させるための詳細なモデルを開発してきましたが、クレイグはこれらの論議との調整はほとんどしていません。

 

クレイグはまた、大洪水に関する古い地球の創造論者のある一般的な主張を不正確に描写しているようです。クレイグは、古い地球の創造論者の多くが、局地的な大洪水を生き延びたかもしれない他のヒト科 (ネアンデルタール人など) がアダムの子孫であるとは信じていないことを認識していません。具体的には、創世記の大洪水の記述は伝統的に全人類、すなわちアダムとエバの子孫 (ノアとその家族を除く) を一掃したと言われています。しかしクレイグは、メソポタミア地方に限定された局地的な大洪水のモデルでは、全人類を一掃することはできないと主張しています。なぜなら、そのようなメソポタミア限定の洪水が起きたかもしれない時期にはすでに、地球の至る所にヒト科が広がっていたからです。彼が述べるところでは、「大洪水以前の人類はペルシャ湾岸地域だけに住んでいた」という考えは、現代の古人類学に照らし合わせると「空想的」です (124ページ)。

 

どうやらクレイグは、古い地球の創造論者の多くは、ヒト属の全員が共通の祖先を介して関係しているわけではないと考えていることを認識していないようです。彼らは、ある時点で神がアダムとエバを中東で創造したが、アダムとエバは当時存在していたすべてのヒト科動物とは別個に創造されたので、ネアンデルタール人やデニソワ人などはアダムの系統から除外されていると主張するでしょう (注意: 私は必ずしも、アダムとエバネアンデルタール人やデニソワ人と無関係であったという見解にコミットしているのではなく、クレイグが認識していないように見える一般的な古い地球の創造論者の立場を説明しているだけです)。この見解では、アダムとエバの子孫はメソポタミア地方に広がり、(局所的な) 大洪水で一掃されたことになります。しかし、当時存在していた他のホモ属 (ネアンデルタール人、デニソワ人、古代のホモ・サピエンスなど) は、必ずしも神に似た者として造られたわけではなく、アダムの系統とは無関係なので、必ずしも大洪水で絶滅したわけではありません。このモデルでは、メソポタミアから遠く離れた場所に住んでいたこれらの他のヒト科が局所的な大洪水を生き延びたのであれば、大洪水で人類が一掃されたという聖書の記述の主張に反することはありません。なぜなら、「人類」、すなわちアダムとエバの子孫は、これらの他のヒト科とは関係がないからです。クレイグは、局所的な聖書の大洪水で生き残り、世界中に広がったヒト科の存在を解決するためのこの一般的な方法を認識していないように見えます。

若い地球の創造論者の考え方についての誤り

加えて、私は若い地球の創造論者の考え方を十分に知っているので言いますが、多くの若い地球の創造論者は、クレイグが彼らのモデルをひどく誤解していると感じるでしょう。特に、若い地球の創造論者が、大洪水の後300年の間に多種多様な恐竜がすべて進化し、すべてのプレートテクトニクス運動が起こるはずだと信じているという主張についてはそうです。クレイグは、若い地球の支持者は、洪水の後にノアが箱船から恐竜を放ち、その後「恐竜は地球全体に広がり、既知のすべての恐竜の種に進化した」、つまり「恐竜の進化と絶滅の歴史全体は300年以内に圧縮されなければならない」(130ページ) と考えている、と主張しています。これは、若い地球の支持者の主張とは違うようです (繰り返しますが、これは私の見解ではありません。私は若い地球の支持者が言っていることを説明しているだけです)。私の認識では、ほとんどの若い地球の創造論者は、恐竜は大洪水で知られている全種類が死んだ (それゆえに絶滅し、それゆえに化石記録となった) と言うでしょう。確かに、彼らはノアが箱舟にある程度の代表的な恐竜を乗せたと考えるかもしれません。しかし、大洪水前に存在した「既知のすべての恐竜の種」に大洪水後の恐竜が進化しなければならなかったとは論じないはずです。むしろ彼らは、大多数の種は大洪水の間に死に、その後に再進化することはなかったと考えています。

 

同様に、クレイグは若い地球の創造論者に、プレートテクトニクスによって「原始の超大陸が大洪水の後約300年以内に・・・世界の大陸に分離した」(131ページ) と提案するように要求しています。しかし、これは若い地球の創造論者が言っていることではありません。それどころか、今日、ほとんどの主な若い地球の支持者のグループは、プレートテクトニクス運動のほとんどは大洪水の後ではなく、大洪水の間に起こったと主張しているのです。若い地球の創造論者の考え方に関するクレイグの記述は、単純に彼らが信じていることと一致していません。

満足させることはできない

何度も繰り返しますが、上記で議論した多くの見解は、私自身の見解を提示したものではなく、インテリジェントデザインとも何の関係もありません。私が言いたいのはこういうことです。創世記1-11章が「神話的歴史」であるというクレイグの結論は、若い地球の創造論者も古い地球の創造論者も満足させることはないでしょう。多くの若い地球の支持者たちは、クレイグが自分たちの科学に向き合っていないと感じるでしょう。一方、多くの古い地球の支持者たちは、クレイグが彼らの神学や解釈学、また彼らのモデルの重要な人類学的側面に向き合っていないと感じるでしょう。

 

クレイグが神話の本質を詳細に調査したのは立派なことです。しかし結局のところ、彼は創世記と科学を調和させるモデルに適切に向き合うことができず、創世記1-11章は科学と相容れないので「神話的歴史」であるという結論に一直線に進んでいるように見えるのです。これでは、創世記1-11章を科学と調和させるために努力してきた多くの人々 — 彼が評価する以上に努力してきた人々 — が疎外されることになります。言い換えると、聖書のガイドとしては、本書は不十分なのです。科学のガイドとしてはどうでしょうか?それについては、次回の投稿で触れることにします。