Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

自然の明瞭性はどのようにデザインを指し示しているか?

This is the Japanese translation of this site.

 

ブルース・ゴードン
2022/4/1 6:34

 

編集部注: この記事は、新しく発売された書籍『The Comprehensive Guide to Science and Faith: Exploring the Ultimate Questions About Life and the Cosmos (English Edition)』からの抜粋です。

 

アルバート・アインシュタイン (1879-1955) が、「世界の永遠の謎はその理解可能性である・・・世界が理解可能であるという事実は奇跡である」と言ったことは有名である。同様に、数理物理学者のユージン・ウィグナー (1902-1995) は、「物理法則の定式化に数学の言語が適しているという奇跡は、我々には理解できない、受けるに値しない素晴らしい贈り物である」と述べている。

 

これらの言葉が強調しているように、人間の精神に対する宇宙の明瞭性には、2つの点で説明が必要である。第一は存在論的で、なぜ自然は理解できるように秩序づけられているのか?第二は認識論的で、なぜ人間の精神は自然の秩序についての理解を得ることができるのか?過去には、このような問いが今日のような困惑を引き起こすことはなかった。形而上学的に自然主義的な世界観がなぜこれらの問いに良い答えを出せないのか、そしてなぜ宇宙をインテリジェントデザインの産物と理解する有神論が、自然の存在と明瞭性についての説明を持つ唯一の形而上学的文脈なのかを吟味する前に、近代科学の勃興と現在の環境について歴史的展望を得ておこう。

歴史的な視点

科学が可能であるためには、自然界に秩序が存在し、かつ、それが人間の頭脳によって発見可能でなければならない。しかし、なぜこの二つの条件のいずれも満たされなければならないのだろうか。歴史的には、古代ギリシャや初期イスラムにおいて、自然に対する体系的な研究が一時的に見られ、また他の地域では孤立した発見があったが、現代科学の種は、その方法論と成果が世界中に広まる前に、まず西洋文化において集中的かつ持続的に実を結ぶことになったのである。

 

この世界を変えるような永続的な発展は、中世ヨーロッパに浸透していたユダヤキリスト教的世界観の背景の中で生じた。その原動力となったのは、宇宙は神の意志による自由で合理的な創造物であり、人間は神に似せて造られた合理的な被造物として、神からの秩序を持つ現実を探求し理解することができるという社会全体に深く根付いた概念であった。神の創造的意志の自由は、この秩序を抽象的に推論できない — 観察や実験を通して発見しなければならない — ことを意味するが、神の安定した忠実な性格は、それが勤勉な研究により明らかにできる合理的構造を持つことを保証した。この神学的基盤は、宇宙の明瞭性に関する存在論的、認識論的な問いに確固たる答えを与えていたが、アインシュタインとウィグナーの言葉が明らかにしているように、20世紀半ばにはこの基盤が失われてしまった。なぜだろう?

作用因と質料因

それは、すべての自然現象を物質的な接触カニズムで説明しようとした17世紀の機械論哲学の産物であるとする見方がある。この見解では、機械論哲学は科学的因果関係を作用因と質料因に概念的に還元し、アリストテレスの形相因と目的因の観念を科学から一掃したことになる。これは恐らく、方法論的には妥当であろうが、形而上学的には妥当ではない。機械論哲学における機械の概念は、形相因をそのデザインに、目的因をそれがかなうように創造された目的に留めていた。アリストテレスとの決別は、有神論的かつ理神論的機械論哲学者の概念において、デザインと目的は内在的に作用するのではなく、超越的に課されるものであることから生じ、科学的説明の探求は、作用的・質料的機械の知的な実装に向けられることになった。「科学的」な自然観からあらゆる意味でのデザインや目的意識が一掃されたのは、19世紀末に台頭したダーウィン哲学によるもので、それは自然が機械であることを粗野な事実として、その発展の過程を完全に盲目的かつ無目的なものとして見ている。

自然主義の庇護の下に

自然界における数学的に記述可能な規則性の存在と、その人間精神への明瞭性 (それ自体、盲目的な過程の偶然の結果であると考えられている) を驚きとするのは、このように考えられたダーウィニズムであり、それは自然主義 — 自然界の自己充足性および超自然主義の否定 — を科学の文脈として想定しているからである。自然主義の庇護のもとでは、現在作用している原因を過去に投影して宇宙の現状を説明したり、未来に投影して宇宙の発展を予測したりできるような自然界の規則性を期待することはできない。自然が存在する理由を説明するのに十分な原因が一切ないので、哲学的自然主義者には、存在するものが秩序立っているはずだと考える理由も、見つけた秩序が過去や未来に投影できるはずだと考える理由もない。

 

超越性を否定し、宇宙の概念を閉じた究極的には恣意的な因果系と規定することで、自然主義は、アインシュタインやウィグナーが言及したように、科学を奇怪な営みにしている。一方、ユダヤキリスト教的世界観では、自然が存在しかつ規則正しいのは、それが神の活動に対して閉じているからではなく、(専ら) 神による因果関係が働いているからだと認識する。自然は被造物であり、したがって原因と結果の閉じたシステムではないからこそ、そもそも存在し、科学を可能にする規則正しい秩序を示すのだ。神の存在と働きは、科学の障害ではなく、科学を可能にするものなのである。