Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

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神の仮説: スティーブン・メイヤーの本のタイトルを擁護する

This is the Japanese translation of this site.

 

マイケル・エグナー
2022/12/5 6:46

 

友人で対話相手である哲学者のエドワード・フェイザーは、スティーブン・メイヤーの近著『Return of the God Hypothesis』のタイトルに異議を唱えています。

 

デイヴィッド・クリンホファーのツイートに応えて、フェイザー博士はこのように書いています

 

失礼ながら、「神の仮説」という言い方には苛立ちを覚えます。もし、世界が単に「仮定的に」依存するかもしれないものがXであるなら、Xは神ではありません。論議は、世界が依存しないはずがないXの実在を確立する場合にのみ、神に到達するのです。

 

ですから、有神論を「仮説」として提示する論議は、有神論のための論議としては、せいぜい時間の浪費であり、実のところ、神および神と世界との関係についての歪んだ概念をもたらす限りにおいて、明らかに害をもたらすものです。

 

これは、メイヤーが提起したような考察が、ある特定の自然主義的理論、あるいは実のところ今日一般に理解されているような自然主義に伴う現実的な困難を指摘する可能性を先験的に排除するものではありません。そしてそれこそが重要なのです。

 

しかし、自然主義を批判することは、それ自体では有神論を確立するのに十分ではありません。この2つの問題の集合の関係はもっと複雑です。さらに、有神論の理論的根拠を説明する論議は、(単なる仮説ではなく) 実証の形をとっており、経験的現象 (適応、ファインチューニング、その他) のあれこれについての特定の事実よりも深みへ及ぶ前提から進んでいます。これらは私が興味のある初心の読者向けに『Five Proofs of the Existence of God』で示した事項です。

 

私は、フェイザー博士の言うことはこの意味ではまさしく正しいと思います。すなわち、神の存在は、ダーウィンの進化論やビッグバン理論や一般相対性理論と同列の科学理論ではありません。ダーウィニズムやビッグバンや相対性理論が根本的に間違っている可能性は確かにあります。実際、これらの理論がいずれも自然を余す所なく説明するには程遠いことは明らかです。

必要述語

フェイザーがいくつかの著書で見事に示しているように (例えば、こちらこちらこちら)、神が存在することは、自然界を含むあらゆるものの存在にとっての必要述語です。神は存在の根拠 — 必然的存在者 — であり、存在そのものが全く依存しています。

 

しかし、メイヤー博士の本のタイトルを擁護するためには、私はもう一つの視点が重要だと思います。自然神学とは、自然における証拠から神の存在を実証する神学の一部門 (私の見解では、自然科学の一部門とするのが適切) です。フェイザーは、カトリックの偉大な哲学者トマス・アクィナス (1225年-1274年) の思想の専門家です。アクィナスの見解では、神の存在の実証はすべて自然神学です。なぜなら、存在は本質とは絶対的に異なるものだからです。

 

このことは、神の存在の有効な実証はすべて、証拠から始まり、その証拠の説明として最も満足のいく説明へと進まなければならないことを示唆します。これがアンセルムス存在論的証明へのアクィナスの反論の基礎です。存在論的証明は純粋に形式的な演繹的論議であり、ある種の証拠 (存在) に頼らずに論理 (本質) だけで何かの存在を証明することはできないのです。

アクィナスの形而上学

このように、私が理解するアクィナスの形而上学では、神の存在は自然科学における理論であり、(啓示は別として) 自然科学 (すなわち、自然神学) を介してのみ実証できます。神の存在を否定することは、自然における変化の実在 (第一の道)、自然における因果関係 (第二の道)、自然におけるあらゆる存在 (第三の道)、自然における完全性の程度 (第四の道)、自然における目的論 (第五の道)、自然における過程の相互関連性 (新プラトン主義的証明)、普遍の実在 (アウグスティヌスの証明)、自然における本質と存在の現実的区別 (トマス主義的証明)、自然に対する充足理由の存在 (合理主義的証明)、道徳法則の実在を否定することになるからです。

 

神の存在を否定することは、惨めな無知を認めることであり、否定者がこれらの証明に精通している場合は、狂気の沙汰です。とは言うものの、アクィナス自身の基準では、これらの証明は自然 (科学) 的証拠から始まり、最良の説明への推論へと進む帰納的論議であるという意味で、自然科学における仮説です。

正しく理解された科学

そのような観点から、私はメイヤー博士の本のタイトル、すなわち神の仮説の有効性は、正しく理解された現代科学によって実証されていると見なしています。もちろん、メイヤー博士の提示する論議は、トマス主義や古典哲学的証明ではありませんが、彼の論議は古典的な自然神学にはないような方法で、一般市民や科学者に親しみやすいものとなっています。

 

哲学的に無垢な現代文化では、ビッグバンや遺伝暗号、人間本位的な偶然の一致によって神の存在を確信する人は、アウグスティヌスの証明や新プラトン主義的証明によって確信する人よりも多いのではないかと私は思っています。フェイザー博士は優れた指摘をしています。特に、この討論において無神論者自身の形而上学的仮定を用いるのは危険だという点です。しかしメイヤー博士は、無神論者の陣営に入り、彼らの欠陥のある道具を取り上げ、彼ら自身の武器で彼らを打ち負かすということをしたのです。

 

メイヤー博士の輝かしい著書は、21世紀のアレオパゴス説教であり、私たちが命を持ち、動き、存在している科学主義的な世界に適合しているのです。