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ブライアン・ミラー
2023/2/9 6:33
著名な有機化学者ジェームズ・ツアーと無神論者の YouTuberデイブ・ファリーナのサガは、生命の起源についてのツアーのビデオシリーズの第2シーズンでも続いています。シーズン1を振り返ると、生命の起源の研究へのツアーの批判に対し、ファリーナはツアーの主張への批判で応じました。その後、ツアーはファリーナの返答に含まれる多数の誤りを詳述する14部のビデオシリーズを作成しました。それは生命の起源の研究の暗澹たる現状についての上級チュートリアルにもなっています。
次いでファリーナは、ツアーのビデオシリーズに、3人の科学者へのインタビューを含む2本の新しいビデオ (こちら、こちら) で応じました。その3人とは、リー・クローニン、ブルース・リプシュッツ、スティーブ・ベナーです。クローニンとベナーは生命の起源の指導的な研究者と考えられており、リプシュッツは大いに尊敬されている合成化学者です。彼らの証言は、ツアーの評価への信用を落とすことと、生命の起源の謎の解明への研究者たちの着実な進歩を視聴者に保証することの両方を意図していました。ツアーの新シリーズは、真実が正反対であることを暴露しています。エピソード1はこちらです。
クローニンとベナー
ツアーは、ファリーナも彼の専門家も、生物の自然発生の分野が過去70年間にわたりなぜ著しい進歩を遂げなかったのかを詳述した第1シリーズで提示した論議やデータのいずれにも対処していないことを実証しています。私は、中心的な障害について扱った3つの記事でツアーの論議を要約しました。
- 構成要素の起源: アミノ酸、単糖類、ヌクレオチド、脂肪酸。
- 構成要素を連結して複雑な分子や細胞構造にすること: タンパク質、RNA/DNA、細胞膜。
- 複雑な分子と構造を組み立てて自律的な細胞にすること。
クローニンとベナーはインタビューの中で、自分たちの研究がこれらの各課題に対処していると論じました。ツアーは、彼らの実験は生命の起源とは関係ないと言い返しました。それにはいくつかの理由があります。
- ヌクレオチドの前駆体であるリボースを生成した実験 (こちら、こちら) では、ヌクレオチドの合成に必要な後続反応にリボースが加わることを妨げるような他の分子も多数生成されました (こちら、こちら)。ツアーはこれらの実験生成物を「ジャンク 」と表現しています。
- アミノ酸を鎖状に結合させるには、注意深く制御された実験条件が必要です。しかも、人工的に生成された鎖は、アミノ酸同士を連結させる結合に誤りが多く、どのような起源のシナリオでも役割を果たすことができません。また、鎖の長さも短すぎて、生物学的に有用な機能を発揮できません (こちら、こちら)。
- 「油性原始細胞」を生成するには、非常に多くの高度に調整された段階を含む化学的プロトコルが必要であり、初期の地球上で同様のことは全く起こりえなかったでしょう。さらに、その構造には生命の創生を支える原始的な膜として役立つような物理的特性はありません (こちら、こちら、こちら、こちら)。
ブルース・リプシュッツ
最も問題となったのは、ブルース・リプシュッツとのインタビューで、アミド/ペプチド結合を可能にする界面活性剤分子の設計について説明しています。ファリーナは、アミノ酸が水中で自発的に連結することはないというツアーの発言にリプシュッツが異議を唱えたと主張しました。問題は、リプシュッツはファリーナに自分の研究についてのビデオクリップをまったく別の目的で送ったということです。彼は、ファリーナがそのクリップを使ってツアーの主張に異議を唱えたことは知らず、ツアーのビデオを見たことすらありませんでした。最も重要なのは、リプシュッツはアミノ酸同士を連結していたのではないことと、水中ではなく疎水性ポケットの中で化学反応を起こしていたことです (こちら、こちら)。
ファリーナが知らなかったことですが、ツアーはリプシュッツと40年近い友人関係にあり、それで彼はリプシュッツにメールで彼のコメントについて質問しました。リプシュッツは、自分がファリーナのビデオに出ていることを知らなかったと述べただけでなく、アミノ酸が水中で鎖状に連結するかという疑問は自分の研究とは無関係であることを認めました。
世俗的な信仰の高僧たち
熱心な無神論者であるファリーナは、ジェームズ・ツアーと同じ倫理基準に縛られていないことを実証しています。彼はツアーがビデオで取り上げた化学の訓練も受けていないので、彼が科学について誤った説明をするのは驚くべきことではありません。ツアーにとってはるかに気がかりだったのは、クローニンとベナーが自分たちの実験と生命の起源の問題との関連性をどれほど誇張しているかということでした。
私は、科学者が世俗的な起源の物語の擁護を望むときに共通するパターンを見てきたので、彼らの研究に対するポリアンナ的な描写にはそれほど驚きませんでした。彼らはしばしば、真実を学び伝えることを主要な関心事とする客観的な科学者の役割を果たすことをやめ、世俗的な信仰の高僧としての役割に踏み込みます。そのような役割では、彼らは科学的な正確さというより、自然の過程に私たちが目にする世界のすべてを説明する能力があるという信念を一般の人々に抱かせることに関心があります。彼らはまた、自分たちの唯物論的教義にあえて挑戦し、生命が創造者から生まれたことを科学がいかに指し示しているかを正直に話す人を悪魔化する任務を感じています。