Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

現代神経科学における二元論と唯物論

This is the Japanese translation of this site.

 

マイケル・エグナー
2021/11/16 17:12

 

編集部注: この記事は、新しく発売された書籍『The Comprehensive Guide to Science and Faith: Exploring the Ultimate Questions About Life and the Cosmos (English Edition)』の一つの章からの抜粋です。

 

唯物論に論理的問題があれば、21世紀の神経科学はその影響から逃れられると思うかもしれないが、そうはいかない。現代の神経科学者の多くは、暗黙のうちに唯物論的な視点で仕事をしている。それは、彼らが反省していないからでもあるが、唯物論が現代科学にはびこる無神論的科学主義と形而上学的な相互関係にあるからでもあるし、また、神経科学の分野で二元論的な視点を公に自認することがキャリアの障害になると (正しく) 認識されているからでもある。私は最近、敬虔なクリスチャンである友人 (終身在職権を持つ実績のある神経科学者) から、もし唯物論に公に疑問を呈するようなことがあれば、二度と助成金はもらえないだろうと内密の会話で言われたことがある。

最良の説明への推論

唯物論は、論理的・科学的な理由ではなく、イデオロギー的な理由により現代の神経科学の枠組みとなっている。唯物論は、神経科学において実証されるのではなく、規定されている。論理や証拠にかかわらず、このような規定が簡単にできてしまっているのは、唯物論や二元論を曖昧さがないように厳密に検証するのが難しいからだ。思考が物質的であるか非物質的であるかを、実験的にどうやって知ることができるのだろうか?この形而上学的な疑問をどうやって検証するのか?それは検証可能で、かつ検証されてきた。推論には、アブダクションを除いて、演繹法と帰納法の2種類がある。全ての自然科学は帰納的である。なぜなら、13世紀にトマス・アクィナスが観察したように、本質 (演繹的論議の形式的構造) は存在とは絶対的に区別されるため、演繹法では物の存在を証明できないからだ。私たちは神経科学を演繹することはできない。私たちは証拠を集め、説明の枠組みを適用し、どの推論がその証拠と論理に最も適合しているかを見る。神経科学は全ての科学と同様、帰納的であり、証拠から導き出された最良の説明への推論である。

 

唯物論と二元論を検証するには、それらを定義する必要がある。以下は私が使っている作業用の定義である。

 

  1. 唯物論は、精神のすべての側面は余すところなく脳が引き起こしているという推論を伴う。
  2. 二元論は、精神のある部分を脳が引き起こしているが、そうでない余地もあるという推論を伴う。

 

どちらの党派も、脳が精神のある側面を引き起こすことには同意している。唯物論者の主張は急進的である。脳が精神のすべての側面を引き起こしており、非物質的な思考は存在しないというのだ。

 

二元論者の主張はそれほど急進的ではない。脳によって引き起こされるのではない精神の側面があるということだ。

 

ここでは哲学的な問題が微妙に絡み合っており、付随性や随伴現象説などが関わってくるが、それらは私たちの範疇を超えている。しかし、唯物論と二元論の基本的な主張は、これから見るようにある程度厳密に検証することができる。

非物質的な余地

前述したように、唯物論と二元論の精神の理論は、非物質的な余地について異なっている。つまり、すべての精神状態が脳の状態によって完全に引き起こされるのか、それとも脳によって引き起こされるのではない (つまり、非物質的な) 精神状態があるのか、という点が異なる。もちろん、脳の状態と無関係な精神状態が無数に存在するという証拠は不完全だが、それは研究する努力がなされていないため、あるいは (おそらく) 採用されている科学的手法が鈍感であるためである。しかし、これらの条件に留意しつつ、次の基本的概念に基づいて、唯物論や二元論について合理的な推論を行うことができる。すべての精神の状態が脳の状態によって引き起こされるのであれば、すべての精神の状態は何らかの仕方で脳を刺激することによって喚起することができ、すべての精神の状態は何らかの方法で脳を切除 (損傷) することによって抑制することができ、すべての精神の状態は何らかの方法で脳の状態と相関させることができる。脳の状態によって引き起こされない精神の状態があるのならば、そのような精神の状態は、喚起、切除、相関では手に負えないであろう。

 

精神-脳の問題を扱う神経科学の独創的な実験のほとんどは、喚起的 (脳を刺激する)、切除的 (脳を抑制する)、相関的 (脳の状態と精神の状態を比較する) に分類される。精神-脳の疑問について語る神経科学の主要な実験を振り返ることは教訓的である。

喚起実験

ペンフィールド — 知的な発作と自由意志

 

ワイルダー・ペンフィールド1は、20世紀半ばの指導的な脳外科医・神経科学者であり、脳外科手術を受けている覚醒状態の患者の脳表面から刺激を与えて記録することで、てんかんの外科的治療を行った先駆者である。これが可能になったのは、脳自体が痛みを感じないことと、ノボカインのような薬で頭皮を麻酔して手術を無痛化できるからである。この手術は今日でも行われている。

 

ペンフィールドが特に興味を持ったのは、脳と精神の関係である。唯物論者としてキャリアをスタートした彼は、熱烈な二元論者としてキャリアを終えた。彼の二元論は2つの観察に基づいている。

  1. 知的な発作がないこと。発作は、脳からの散発的な放電であり、完全な意識喪失から、限局性の筋肉群の単収縮、皮膚上の感覚、瞬間的な光や音、匂い、さらには強烈な記憶や情緒状態まで、さまざまな症状を引き起こすものである。ペンフィールドは、脳の表面からのこれらの放電を記録することができた。ペンフィールドは、知的な発作がないことに注目した。つまり、これまでの医学の歴史の中で、特定の知的内容、または抽象的な思考を持つ発作は一度もなかったのだ。数学の発作も、論理の発作も、哲学の発作も、シェークスピアの発作もない。もし、広く信じられているように、脳が高次の知的機能の源であるならば、なぜ医学の歴史の中で、抽象的な思考を喚起するような発作がなかったのだろうか?このことに惹かれたペンフィールドは、知的発作が起こらないのは、抽象的な思考が脳に由来しないからだと、極めて合理的に推論したのである。
  2. 自由意志は脳を刺激してもシミュレートできないこと。ペンフィールドの研究の一環として、脳の運動野を刺激すると、手術中の患者の手足が動いた。彼はこの方法で脳の運動野をマッピングした最初の外科医である。その際、患者には刺激された動きと自分で自由に動かした動きの違いが常にわかることに彼は気付いた。ペンフィールドは、患者に「好きなときに手足を自由に動かしてください」と言いつつ、何も言わずに手足に刺激を与えて動かしていた。患者は、自分で選んだ動きと、外科医が起こした動きの違いを常にわかっていたのである。ペンフィールドは、自由意志をシミュレートする脳の領域を見つけることができなかった。彼は、自由意志は脳には存在しない、精神の非物質的な力であると結論した。

注釈

  1. Penfield, W. (1975) Mystery of the Mind: A Critical Study of Consciousness and the Human Brain. Princeton, NJ: Princeton Legacy Library. (邦訳: 『脳と心の正体』、塚田裕三/山河宏共訳、文化放送開発センター出版部、1977年)