Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

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ダーウィンの 「神ならこのようにはしないだろう」論議

This is the Japanese translation of this site.

 

ロバート・シェディンガー

2024/2/20 6:36

 

編集者注: シェディンガー博士の新著『Darwin's Bluff: The Mystery of the Book Darwin Never Finished』からの抜粋をお届けできることを嬉しく思います。この記事は第3章からの改稿です。

 

進化を引き起こすメカニズムについて自然主義的な説明を提唱することはさておき、種の研究におけるチャールズ・ダーウィンの主な目標の1つは明らかに、生命の多様性への創造論者のアプローチにとどめを刺すことであった。自然選択は、実際にはこの後者の目標に付随するものであった。ダーウィンは1863年5月11日に、エイサ・グレイにこう書いている。「個人的には、もちろん自然選択については大いに気になりますが、創造か変容かという問題に比べれば、私にはまったく重要でないように思われます」。その結果、進化の真のメカニズムを提唱していると広く歓迎されているこの本は、実際には反創造論者のポレミックのように読める。

 

ダーウィンは、種とは神の念頭にある理想的な型を表現しており、今日我々が目にする形態で創造され、今日我々が遭遇する場所に配置されたとする見解とは対照的に、世界における種の地理的分布は、共通の祖先からの進化的発展の長い歴史の証拠を表現していると論じた。『種の起源』には、ダーウィンが説明している証拠は種がそれぞれ特別に創造されたという仮定ではほとんど意味をなさないと明言している箇所が数多く存在する。

大洋島について

例えば、大洋島に特定の種の動植物が存在しないことについて議論する際に、ダーウィンはこのように書いている。「個別的な種の創造の学説を認める人は、最もよく適応した動植物が大洋島のためには十分創造されなかったことを認めなくてはならないであろう」1。ここでダーウィンは、大洋島からこれらの「最もよく適応した動植物」が欠落したままにする理由は創造者にはないであろうから、それらの不在は創造論に反対する証拠になると仮定しているようだ。数ページ後、ダーウィンはこのように論じる。

 

あらゆる種類の動物が受ける変容の量は、一部は時間の経過に依存しており、また相互にあるいは本土から浅い海峡で隔てられている島は、もっと深い海峡で隔てられている島よりも、近い時代に連続的に結合していた可能性が一層大きいのであるから、我々は二つの哺乳動物相を分ける海の深さとそれらの類縁性の程度の間に一つの関係が存在している理由を理解することができる――この関係は独立の創造行為の理論からは全く説明できない関係である。2

 

つまり、大陸に近い島々の哺乳類相は、大陸から遠く離れた大洋島の動物相よりも大陸の動物相に似ているため、創造者が大洋島の動物相を大陸の動物相とは異なるものにしようと決めたと信じるよりも、大陸と島の動物相の間に関係があると信じる方が合理的だということである。

主張を強める

ダーウィンは、近縁の種がしばしば別々の、しかし近くの場所に見出される方法を議論する際にこの論法をさらに強め、両方の場所に生息していた共通の先祖が、2つの新しい種に分岐したと示唆している。それを例示するために、彼は再び島と大陸の関係を持ち出している。「我々はガラパゴス諸島、ファン・フェルナンデス (Juan Fernandez)、および他のアメリカの島々のほとんどすべての植物と動物が隣接するアメリカ本土の植物と動物に対し、またヴェルデ岬諸島と他のアフリカの島々の動植物がアフリカ本土に対し、顕著に関連することでこれを知る」と彼は書いている。「これらの事実が創造説で説明できないことは認められなければならない」3

 

ダーウィンは幾度も、生物の分布についての何らかの具体的な観察結果について議論し、その上で、それぞれの種が独立して創造されたという理論にはそれを説明する力がないと主張している。だが、自然界の創造者が何をするのか、あるいは何をしないのかを知っていると仮定することに危険が伴うのは確かである。

 

進化的変化を指し示している地理的分布についてのダーウィンの最良の例の多くに関係する変容は、劇的というほどでもないという事実もある。これに照らしてみると、おそらく自然選択は種を科へと多様化させることはできても、それ以上のことはできないのであろう。したがってダーウィン懐疑論者は、そこから自然の過程を介して多くの科へ分岐していくタイプの、特殊な創造を主張することができるのではないか?あるいは、自然選択によって誘発された多様化は、分類学の梯子をもう1段か2段上った、目や綱にまで達するのかもしれない。あるいは、普遍的共通祖先が事実であっても、それは純粋に盲目的なメカニズムによるのではなく、知的な入力に由来したのかもしれない。

古典的誤謬

このような他の選択肢にも配慮して取り組もうと『起源』を探しても無駄である。変容を伴う系統というダーウィンの理論は、実際にそれぞれの種の独立した創造よりも良い説明かもしれないが、ダーウィンは単に自分の説明がこの選択肢よりも良いと宣言しているのではない。彼は、それが唯一可能な説明であると示唆しているのである。したがって、ダーウィンの論証に古典的な「誤った二分法」、すなわち1つの選択肢を否定し、2番目の選択肢を明らかな勝者と宣言し、他に有力な選択肢があることは気に留めないという誤謬を見たとしても無理はないだろう。

 

ダーウィンは自身を擁護して、創造者に頼る生物学的起源のあらゆる理論に対して、より包括的な反証事由を持ち出している。それは、彼が類型論 ― 哺乳類、鳥類、爬虫類に見られる四肢のパターンのような、多くの生物間の構造的類似性 ― の現象について議論している一節に見られる。「それぞれの生物の独立創造という通常の見解に立てば、我々はただそうだからそうだといえるだけである――すなわち各々の大きな綱におけるすべての動植物を一様な設計で造ることが創造主の意にかなったのだ、と。しかしこれは科学的説明ではない」4

ダーウィンのより広い目標

ダーウィンが創造論者の説明に対して問題にしているのは、それらが明らかに誤りであるとか不可能であるということではない。それらは、彼の見解では科学的ではないのである。ここに『起源』におけるダーウィンのより広い目標の1つが見られる。創造論者の説明を根絶し、自然史を確固とした自然主義的な (彼の理解では、科学的な) 基礎の上に置くことである。しかし、「神ならこのようにはしないだろう」という彼の論議自体が神学主導的であり、したがって彼自身の説明によれば、それ自体は特に科学的な論議の様式ではないということは、彼は思いもしなかったようである5

 

もちろんダーウィンは、自分の見解を支持する経験的証拠を提示し、それに立ちはだかるさまざまな困難を克服できれば、より強固な地盤を得られることを知っていた。そのような困難の1つを挙げよう。もしすべての生物が1つまたは少数の共通祖先の系統に属するのであれば、生命はどのようにしてこの惑星全体に広がったのだろうか? 鳥や魚のようなある種の動物は長距離を移動できるが、植物のような静止した生物はどうだろう?植物はどのようにして海洋を長距離移動し、島々に植生することができたのだろうか?この疑問に答えようとして、ダーウィンは種子散布に関連する一連の実験に入った。

注釈

  1. Darwin, C. (1859) On the origin of species by means of natural selection, or preservation of favoured races in the struggle for life. London: John Murray. p. 305. (邦訳: チャールズ・ダーウィン、『種の起源 原書第6版』、堀伸夫/堀大才訳、朝倉書店、2009、382ページ)
  2. 同上。p. 308. (邦訳: 387ページ)
  3. 同上。p. 365. (邦訳: 459ページ)
  4. 同上。p. 334. (邦訳: 420ページ)
  5. Hunter, G. C. (2019) Darwin's God: Evolution and the Problem of Evil. Eugene, OR: Wipf & Stock を参照。ハンターは、ダーウィンの「神ならそのようにはしなかっただろう」という論議が彼の理論の中心にあることを示している。ハンターによれば、ダーウィンの理論は科学的というより神学的である。