Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

「唯物主義者の魔法使い」との出会い

This is the Japanese translation of this site.

 

ダニエル・ウィット

2024/3/27 6:35

 

C. S. ルイスは『悪魔の手紙』(1941) の中で、説教好きな悪魔スクリューテープに興味深い発言をさせています。悪魔は次のように言います。

 

われわれはじつのところ、目下、苛酷なディレンマに直面しているのだよ。人間がわれわれ悪魔の存在を信じなければ、直接にやつに呵責を加えることから生ずる愉快な結果を楽しめないし、魔法使いを創造することもできない。その一方、人間がわれわれの存在を信ずるなら、やつらを唯物主義者とか、懐疑論者に仕立てられなくなるのだ。少なくともいまのところは。・・・ひとたびわれわれの最高傑作である唯物主義者の魔法使いをつくりだすことに成功するならば、勝利はもう目前だ。唯物主義者の魔法使いとは、一方では「霊たち」の存在を否定しながら、彼が漠然と「諸力」と呼ぶものを、利用するだけでなく、まさに礼拝する人間のことなのだがね。

 

ルイスはこの展開を心から心配していたようで、それについて1冊のディストピア小説を書き上げました。彼の別世界物語三部作の最終作である『サルカンドラ いまわしき砦の戦い』では、一群の科学者たちが接触した「マクローブ」(「マイクローブ (微生物)」の反対語で、優れた地位にあることを示唆する) と呼ばれる肉体を持たないエイリアンの知性が、人類が神性へと昇るのを助けるという約束で彼らを誘惑します。科学者たちは、彼らが実際には悪魔を崇拝し始めていることに気づかずに、彼らから命令を受け始めます。

 

ルイスの恐怖が現実になるには、2つのことが起こらなければなりません。(1) 科学者が悪魔と接触すること (あるいはその逆)、(2) それらの科学者が非常に特殊な類の世界観を持っていること、です。

 

明らかな理由から、最初の要件が満たされているかどうかを評価するのは容易ではありません。そのため、それは脇に置いておくことにしましょう。

 

しかし、2番目の要件は非常に簡単に評価できます。正しかろうが間違っていようが、より高度な知性が人類に接触してきたと実際に信じている現代の科学者に注目し、彼らの態度がルイスの予見した「唯物主義者の魔法使い」と一致するかを見ればよいだけです。

エイリアンと悪魔

最初の事例研究として、ゲイリー・ノーランに注目しましょう。ノーランはスタンフォード大学の著名な免疫学者で、エイリアンが地球を訪れていると信じています。私は彼の科学哲学について最近の投稿で書きました。私が言及しなかったのは、彼の見解のより不穏な側面です。すなわち、彼が考えているエイリアンの実際の姿です。

 

ロス・コーサートによる2022年のインタビューの中で、ノーランは「地球外生命体という説明」が最も可能性が高いとは考えていないと言っています。彼は、多元宇宙仮説を考慮に入れると、問題のエイリアンの実体は、私たちの宇宙の向こう側から来たというよりも、むしろ別の宇宙や次元から来た可能性が高いと信じています。ノーランは続けて、これらの実体が人間の知覚を操作する能力があるかもしれないという証拠を見たと言います。つまり、人々が彼らを見たとしても、それは彼らの真の姿ではなく、単なる精神的な投影かもしれないということです。別のインタビューでノーランは、人々が遭遇する実体には、物理的にはまったく具現化されないものがあるかもしれないと考えていることを認めるところまで至っています。

 

すると浮かび上がってくるのは、地球にエイリアンが訪れている証拠があるとノーランが言うとき、彼は必ずしも従来の意味での「エイリアン」についてではなく、恐らくは精神に直接影響を与えることのできる別世界からの非物理的実体について語っているということです。

 

コーサートのインタビューのある時点でノーランは、UAP (別名UFO) 現象についての情報公開に最も反対しているアメリカの政府関係者は、それがすべて悪魔的なものだと考えている「宗教原理主義者たち」だと述べています。

 

「ええ、『狂っている』と言いたいですね!」とノーランは言います。「彼らはそれが悪魔だと考えているんです」。

 

どうやら、悪魔というアイディアは狂っていますが、肉体を持たない別の次元からの優れた知性というアイディアはそうではないようです。「大きな違いがあるのだろうか?」と疑問に思ってもやむを得ないでしょう。ノーランが提唱する実体は、悪霊、天使、妖精、ジンなどとどのような意味で異なっているのでしょうか?一方をデータの合理的な説明とし、他方を笑止千万とするものは何なのでしょうか?名前だけでしょうか?

交流とアセンション

2番目の事例研究として、アヴィ・ローブを取り上げましょう。ローブはハーバード大学の天文学教授で、スミソニアンの研究者でもあります。ノーランと同様、彼は宇宙人が地球を訪問していると信じており、その見解は非難を浴びています (ただし、仮に彼がインテリジェントデザインに賛成していた場合に浴びていたであろう非難には及びもつかないことには留意すべきでしょう)。批判にもかかわらず、彼はハーバード大学の「The Galileo Project for the Systematic Scientific Search for Evidence of Extraterrestrial Technological Artifacts」を設立することができました。

 

2023年の『The Guardian』のインタビューで、ローブはある会話を回想しています。

 

[ある人が] 私に尋ねました。「あなたは何かから逃げているのですか、それとも何かに向かっているのですか?」私は言いました。「両方です」。私は、証拠を探さずに強い意見を持つ一部の同僚たちから逃げています。そして、恒星間空間にいるより高度な知性に向かって走っているのです。

 

「より高度な知性」との交流を熱望するあまり、ローブはほとんど、偶然に宗教を再発見したかのように見えます。彼は人類についての彼の夢をすべてこの結合にかけており、 もし人間の科学者がこれらのより高度な知性から学べば、無から宇宙を創造することを学んで、人を神にするかもしれないとさえ願っています

 

もしローブがそのような 「より高度な知性」を発見したら、彼はどう反応すると思いますか?彼は立ち止まって、自分が霊的な存在、もしかしたら好ましくない存在と接触しているのかもしれないと考えるでしょうか?

 

おそらくしないでしょう。ご存知のように、超自然主義は科学では許されません。スミソニアン博物館が過去にどのようにインテリジェントデザインに友好的と考えられた研究者たちを扱ったかを見てください。

 

しかし、これは疑問を引き起こします。ハーバードやスミソニアンの科学者が、人間ではない「より高度な知性」によるデザインの証拠を地球上で探すことが完全に許容されるのであれば、なぜインテリジェントデザインは、関係する研究者が宗教的シンパシーを抱いているという疑いをかけられる際にはいつも論外とされるのでしょうか?もし証拠の性質が同じなら、なぜ哲学的解釈に関しては贔屓されるのでしょうか?

唯物論の緩慢な終焉

ノーランとローブの扇情的な主張は、最も露骨で劇的な例かもしれませんが、科学者や哲学者が、宗教や神話から来たものと非常によく似ているように見える実体を仮定しながらも、科学的な言葉で着飾って「超自然主義」をこすり落としているのは至る所で見られるでしょう。ルイスの悪夢のシナリオに欠けている材料は悪魔だけです。魔法使いたちは準備万端で待っているのです。

 

どうしてこうなったのでしょうか?何が私たちをこのような、科学者が別世界から来た肉体のない精神を仮定することを容認できるようにしながらも、そうするのは彼または彼女が物事を正しく表現し、それを何らかの古い名称で呼ばない場合のみという、凝り固まった世界観に導いたのでしょうか?

 

それに答えるには、唯物論哲学の歴史に注目しなければなりません。もともとその哲学では、宇宙は砂のような原子の移ろいゆく海にすぎず、その中で動物、植物、川、山、そして世界までもが絶えず形成され、破壊され、作り直されていると説いていました。この宇宙が、かつて存在した、あるいはこれから存在するであろうすべてであり、それを超えるものは何もありませんでした。

 

そのアイディアは心地よいものでした。分かりやすく、直感的で、安全で、(少なくともルクレティウスのような熟練した詩人の手にかかれば) 美的にも快いものでした。そして重要なこととして、神々や宗教、来世について心配する必要を取り除いてくれました。

 

しかし、その理論は証拠の重さには持ちこたえられませんでした。その古い唯物論的な世界概念は、今や中世の天球の観念やバビロニアの平面円盤の地球と同じほど空想的なものです。

 

アイザック・ニュートンが、「隠れた性質」による宇宙の統御を示したことは、同時代の一部の人々にとって苛立たしいことでした。

 

原子はもはや、さまよう小さなビリヤードの玉のようなものではなく、観測されたときにのみ単一の形態に「崩壊」する確率場から成る、エネルギーのダイナモです。

 

虚空でさえ、もはやただの虚空ではありません。それは私たちの世界の構造、時空連続体なのです。目に見えない場で満ちており、「曲げる」ことができます。四次元球体の三次元の表面なのかもしれません。

 

さらに悪いことがあります。ビッグバンの発見は、この宇宙自体が存在するすべてではないことを示しているように思えました。今は、多くの宇宙論者が多元宇宙を信じています。すると今度は、それらの宇宙すべてが発生するための何らかの超越的な枠組みが示唆されます。もしその外に何かが存在するのなら ― もし他の世界が存在し、その向こうに何かがあるとしたら、私たちがその外側から安全に切り離されているとどうして確信できるでしょうか?

 

古い唯物論が排除してきたすべての実体 ― 神性や来世まで含めて ― が今や、現代の科学的理解のもとでは可能になっています。私たちが理解しているところの科学は、肉体のない知性や 別の世界からの侵入者を認めることができます。

 

とはいえ、唯物論は私たちの文化、特に科学界では依然として強い力を持っています。では、もはや「物質」が存在するすべてだとは言えないとしたら、「唯物論」とは何ですか

死んだ哲学の亡霊

唯物論の立脚する教義が誤りであることが証明されれば、私たちは前近代的な超自然主義的世界観に戻るだろうと思ったことがあるかもしれません。しかし、そのようにはなりません。死んだ哲学は常に亡霊を残します。

 

思想としての唯物論は死にました。しかし、態度としては生き続けています。

 

宗教、神話、民間伝承の古い物語を笑い飛ばしながら (「『狂っている』と言いたいですね!彼らはそれが悪魔だと考えているんです」)、それらの物語から来たすべての人物を、より科学的に聞こえる名前の下で喜んで受け入れる態度です。

 

必要が生じれば、何を「自然」と定義するかには制限を設けないのに、神は「超自然的 」なので科学は神の証拠を考慮することはできないと言う態度です。(そして、「わかった、神は『自然的』だ」と言うことも許されていません。それはごまかしです!)

 

霊的な領域に接近する準備は完璧に整っていながら、決してそれを信じない態度です。その態度が有利であることに疑問はありません。それは多分、人をより賢く、より安全で、より主導権を持てるように感じさせます。しかし、現実には無知で無防備なのに、賢く、主導権を持っており、安全だと感じるのは危険です。関わらない方がいいことに、気軽に踏み込んでしまうかもしれません。

 

プラス面としては、こうした傾向は、旧来の唯物論に反対する論争が本質的には勝利を収めていることを示しています。ID理論家にとっては、その後のことを心配し始める時期なのかもしれません。