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ニール・トーマス
2024/6/13 6:35
誇張された知識主張を進める科学的傾向に抵抗して、ハーバード大学の生物学者、故スティーブン・ジェイ・グールド (ダーウィン的漸進主義に反対して断続平衡説を提唱したことで最も知られている) は、科学理論をより控えめに、地球上のさまざまな現象を説明できることを希望して語られる「適応物語」と表現しました。このようにして、まとまりのない大量のデータを、首尾一貫した明瞭な物語として納得のいく形にすることができるかもしれないということです。場合によっては、そのような理論をそれらしい物語や神話、「共通点の無い断片的な状態の知識を意味づけるために、私たちが自分自身に語る物語」1のようなものとして分類することさえ正当化されるでしょう。このような考察により、問題解決において物語が果たす役割が強調されると、チャールズ・ダーウィンの人生、仕事、影響力を評価する上で何らかの助けとなるかもしれません。
神話化されたダーウィン
私たちは、ダーウィンについて申し分なく検証可能な知識の大きな宝庫を意のままにしていますが、それでもそのすでにして大容量の宝庫に、英雄崇拝や俗に言う「神話化」の要素が忍び込むことは避けられません。ダーウィンの南洋航海はその傾向の一例となっています。1830年代にビーグル号に乗船した5年間の航海は、彼にとって目を見開かされるような通過儀礼であったことに疑問の余地はありませんが、恐らく時折提唱されるほど彼の知的発展の基礎となるものではなかったでしょう。その5年間が個人的な道標としていかに形成的であったとしても、後の進化についての彼の見解の発展に決定的な基礎を提供したわけではありません。
一方、ダーウィンの伝説では、説得力のある物語を構成する美学に関わる理解できる理由から、彼の南米での経験が、多くの進化論的発見の形成に関与したことになっています。従来の、部分的に神話化された物語によれば、この勇敢な探検家は、南洋の異国の領域で自然の秘密を収集し、その秘密を仲間の男女と分かち合うために帰還したとされています。このような読み方は、ギリシャ神話において、ギリシャの神々の住まいから地上に火を運び下ろし、その恩恵を死すべき者たちと分かち合ったプロメテウスのような「神話的普遍性」を持つ人物の英雄的パターンに、想像の上では紛れもなく良く適合します。それは潜在意識レベルで人々の心に共鳴し、聴衆が好んで聞く種の感動的な物語であり、記者やその他の語り手は、しばしばそのような原型的な物語パターンに熱烈に依拠します。多くの人はギリシャ神話をほとんど知らないかもしれないとはいえ、かくも染み付いた物語のスキーマは、「適切な」英雄譚がどのように構成されるべきかという観客の期待に組み込まれているも同然に思えます2。
物語のトロープ
ミーシャ・ランドウはかつて、高名な科学者の人生や仕事についての議論でさえ、民間伝承や神話からの驚くべき干渉に悩まされることがある、と注意を喚起しました3。彼女は、科学者は昔から親しまれてきた物語構造を特に意識するべきだと提言しました。なぜなら、それらは客観的なデータを提示する際に潤色したり、歪曲したりするために、ほとんど理解できないレベルで利用される可能性があるからです。私たちが日常生活において対話者を楽しませるために物語を潤色する誘惑に駆られるのと同じように、証拠を説明するために利用される物語様式の選択は、明瞭な理解パターンに安易に報告者を向かわせがちで、証拠により提示される人物や現象に固有の特殊性を損ないかねないと彼女は論じました。
それゆえにダーウィンの伝記の場合も、「発見の大紀行」は良い物語になりますが、一度でもフィクションや神話的な付着物がいくらか剥ぎ取られると、伝説と現実は必ずしも調和しません。ジャネット・ブラウンとマイケル・ネーヴは、ダーウィンの海洋紀行と調査に関する記述を研究・編集した中で、ダーウィンのアイデアは南米の熱帯雨林での野外体験から出てきたものではないと指摘しています4。実のところ、ダーウィンの進化論形成の真実の物語は、異国情緒あふれる場所でのロマンチックな発見とはほとんど関係がありません。ハンフリー・ボガートがかつて述べたように、実生活はお粗末なプロットにしかならず、ダーウィンの場合、彼の発見の実体験は、彼の周囲で徐々に展開された、緻密に研ぎ澄まされたロマンス物語とはほとんど関係がなかったのです。
注目すべきことに、ダーウィンの進化についてのアイディアは、実際には南洋あるいは世界のいずれかの地域において綿密にファクトチェックされた経験的観察から導かれたものではありません。むしろ、それらは一連のアドホックで、ランダムな分割の中で成長したものであり、他の人たち (そのすべてが博物学者というわけではない) から抜粋したアイディアを織り合わせるダーウィンの能力の結果でした。トマス・マルサスへのオマージュや、祖父エラズマスへの恩義を十分に認めていないことからも明らかなように、彼の「発見」は実のところ、読書や個人的な接触から拾い上げたさまざまなヒントのコラージュでした。
ダウンハウスの賢人
偉大なる予言者よ、祝福されたる予見者よ、
われら一生を労して見出さんと努むる
かの諸々の真理は、汝の上にあり。5
神話化に適していたのは南米での航海だけではありませんでした。南米から帰還した後のダーウィンの人生でさえも、いつの間にか疑わしいフィクションのニッチにはめ込まれてしまったからです。詩人のウィリアム・ワーズワースは、幼少期には成熟するにつれて「日の光にとけ込む」、現実の本質を見抜く独特の洞察力が与えられているという彼の確信と関連して、上に引用した名高い行を書きました。『種の起源』に対する最初の10年間の批判が和らいだ後、世論においてはダーウィンを予見者あるいは導師と見なす比較的バラ色に染まった認識が進展しました6。それ以後、ランドウが正しく非難した類のジャーナリズム的用語に置き換えるなら、ダーウィンの物語は、いかにして1人の男とその孫が、世界で最も計り知れない実存的な謎の解答を、しかも1世紀足らずの間に発見したかという話として確立することに他ならないようでした。エラズマス・ダーウィンは、大雑把な連想ですが、感情的に説得力のある意味で、バプティストのヨハネのような人物として物語の役割を果たすことになりました。結局のところエラズマスは、証明されていなかったとはいえ、人類が単細胞の始まりの状態から、宇宙的な仲介者なしに自然に進化し、極めて複雑で自意識のある存在になったという仮説を最初に推進した人物となりました7。
それにもかかわらず、エラズマスがこの知的ドラマで演じることができたのは脇役の人物、演劇の語法で言うところの第二役だけでした。というのは、彼のアイディアは結局のところ、思索的な直感から発したものに過ぎなかったからです。この発見の航海は、孫を舵取りとして、祖父の思考実験を論理的な裏付けで支える何らかの物質的なメカニズム (当初は彼も何のメカニズムか知らなかった) を探し求めて続けなければなりません。彼が降り立った答えはもちろん自然選択であり、それは恐らく、前世紀に起源を持つ長い話の最終的な物語的終幕として、多くの人の心を打ったことでしょう。終局に到達したのです。
物語は進化する
チャールズが1859年の結末まで続けた物語は、多数の以前の、そしてチャールズの同輩の現世代によって身をもって体験され、その意味で共同リハーサルされてきました。1790年代にエラズマスの見解が広く知られるようになって以来、多くの人々が、ゆっくりと展開する物語を自らの心の中で再生するように動かされたことでしょう。とりわけ、読者が正しく物語の続篇になると理解したものが、1844年にスコットランドの出版業者ロバート・チェンバースによって『創造の自然史の痕跡』という題名で出版されたからです8。チェンバースの本は、ヴィクトリア朝時代の人々に世界を完全に物質的な用語で説明しようとする彼の試みにおいて、エラズマス・ダーウィンが書いたものにより現代的な宇宙論的研究を織り交ぜることで、無比の意識高揚運動となったものです。故トム・ウルフが述べたように、この本は「空を照らし」、テニスン、グラッドストン、ディズレーリ、エイブラハム・リンカーン、ジョン・スチュアート・ミルといった世代を釘付けにするほどのヒット/「スキャンダルからの成功」となりました。ヴィクトリア女王とアルバートは、交互にテキストの一部を読み上げたほどです9。
スティーブン・プリケットが観察したように、「知的革命は突然には起きない」のです。人類の独自性への伝統的な信条は、18世紀半ばにはすでにある程度の懐疑をもって扱われていました。ダーウィンが行ったのは、「慈悲の一撃」の執行に他なりません10。それゆえ、当時の読者の多くは、現代的な語法で言うと、1859年にチャールズが提供した「結果に投資した」ことになるでしょう。事実それは、人間存在の深い秘密が一見して克服し難い「謎の中の謎」の代表であったヴィクトリア朝時代の大衆によって、熱烈に期待されていました。ちょうど16世紀初頭に、宗教改革者マルティン・ルターが、彼が聖書に関して深く没頭したことは全てのドイツ人の関心事でもあった (「私の関心事は皆の関心事だ」) という妥当な主張をしたように、人間と動物の生命の起源という疑問は、ヴィクトリア朝の人々にとって絶え間ない好奇心と関心の対象でした。
ダーウィンがこの未解決の謎に幕を下ろすことは、真に切実に望まれていた完結であり、恐らく一部の人々にとっては、神権的権威からの解放を知覚するという点で、ある形のカタルシスという経験になったことでしょう。J・W・バロウは、ヴィクトリア朝の見解におけるこのダーウィン的革命を、自然に対する数多の世紀にわたる多かれ少なかれアニミズム的態度に終止符を打つものとして簡潔に説明しています。彼はこのように続けています。
ダーウィンは1842年の草稿で、生物学の現状を物理学と比較しながら、「惑星は引力の法則に従って動くのではなく、それぞれ個別の惑星が特定の軌道で動くという創造者の意志によるという教義に対して、天文学者は何と言うだろう」と問いかけていた。
1859年以後、生物学者はそのような類のことを言う必要がなくなり、また他の誰にとってもそうであった。11
夢見る啓蒙主義
その当時、多くの人々は『種の起源』の出版を大胆な知的冒険の集大成とみなし、そのモットーは啓蒙思想の結集となる「sapere aude」、すなわち「(単に信じるのとは対照的に) あえて知る」という叫びでした。かつての進化の謎は、今や宇宙の自動性の明瞭な過程に安全に帰属させることができるようになりました。とはいえ、この主張された過程の正確な様式は、時の霧の中でまさしく文字通りに失われており、当時も、そしてこれからも、ファクトチェックを受けられるようなものではなかったので、その物語はやや陳腐な調子で終わります。
しかし、その不都合な真実にもかかわらず、両ダーウィンの著作は本質的に、多くの人々が創世記の「古びたる信仰」と考え始めていたことに挑戦する、代替的な説明の物語を提供しました。ロンドンのリンネ協会の1858年の会合での、ダーウィンとウォレスの見解の先行公開を内々に知っていたある学者ほど、ダーウィンの信条の深い含意を悟っていた者はいませんでした (そこでは両者の見解に同じ時間が与えられていました)12。報告されたところでは、その日のほとんどの学識ある出席者は、彼らは知的に煽動するような知らせを聞きながら奇妙なほど圧倒されたままだったので、点と点を結ぶのはダブリン大学のサミュエル・ホートン教授に任されました。当時、発生仮説と呼ばれていたものへのホートンの見解は、決して肯定的なものではなく、ダーウィンを待望し、彼の見解を無批判に受け入れる人々の知的騒動に全面的に抵抗するものでした。彼は以下の言葉で論評を締めくくっています。
真理が第一義的に重要なものではなくなり、正しい理性や健全な論理が捨て去られたとき、人間の空想が考えつく愚行で、新たな啓示として生み出され、説かれなかったものはない。13
科学とフィクション
ホートンが「説く」と「啓示」という用語を使ったことは注目に値します。これらの用語は、純粋に世俗的な土台の上に築かれた、創造についての模造的、擬似コント的な福音を、ダーウィンとウォレスの両者が暗黙のうちに告知していることを彼が予知できていたという点で特に先見の明がありました。ホートンが「正しい理性」を捨てることに言及したときにも気がついていたように、理性という啓蒙主義の合言葉に表面上触発された仕事が、犯しうる最大の論理的違反を犯していました。それは、無から全てが生じうるという命題です。ホートンにとって、これは啓示ではなく、良く言っても途方もない軽信、悪く言えばまやかしでした。彼が声を大にしていたのは、ウォレスやダーウィンの見解が宗教に敵対しているのではなく、理性に敵対しているのだということでした。彼はウォーレスやダーウィンと同じ用語で訴えていましたが、その用語を逆手にとって、普通の論理の欠如を非難したのです。彼の攻撃は純粋に理性的な根拠によって立つものであり、どんな理性主義哲学者の筆から出たものであっても、当時も現在も同様の信憑性があったでしょう。
実際のところ、ダーウィンは彼の魅惑的なストーリーテリングの中で、創造者なしでも物事を創造できるという、まったく直感に反する主張をしていました (このことは、小さな暖かい池の中で奇跡的な化学反応が起こり、理論的には将来発展する可能性のある初期生命形態が産み出される、という彼の有名な空想の説明になります)。そうすることで、彼は宗教というよりも、以前は決して論争にならなかった2千年前からの「ex nihilo nihil fit (無からは何も生じない)」という知恵と敵対し、それをその逆、すなわち、万物は無から生じる (ことができる) と置き換えました。これは彼の論議全体におけるかなり顕著な欠陥であり、この逆説的な断定の真理値が今日に至るまで論争の焦点であり続けていることは驚くには当たりません。常日頃大いに精力的に擁護されているにもかかわらず、無神論的世界観の強要に特に利害関係のない公平無私の傍観者にとっては、冷静な生物科学の一端というより、唯物論者の空想のように見えるかもしれません。実際、現在自らを進化心理学者 (社会生物学者としても知られる) と分類する人たちの多くは、まさにその強硬さが指摘されてきました。例えば、ドロシー・ネルキンはこのように述べました。
彼らの努力はあまりにも熱心で、まるで彼らがこの理論のダーウィン的適合性を保証しようと ― 宇宙的観念の世界での生存を保証しようと熱望しているかのようだ。14
もしダーウィンの理論が、進化心理学者たちが認識している「スラムダンク」のようなものであれば、このように強く出られるのも (いささか野卑ではありますが) 理解できますが、そうはなっていません。元来、『起源』を喜ばしい顕現という気分で迎えていた人々は、その理論が論理的土台を欠いていることへの注意を軽視した (そうでなければ注意しないことを選んだ) のです。ダーウィン自身、チャールズ・ライエル卿から、「自然選択」なるものは存在し得ず、自然保存のみが存在するということを初歩的な論理の根拠に基づいて指摘されたとき、ホートンが正しい理性と呼んだものが同じように欠如する事態に巻き込まれました。ダーウィンは用語の使い方について引き下がらざるを得ませんでしたが、単純な定義によれば、保存は新しい種を創造しうるような、必要な前方への運動量 (ましてや内蔵されたテロス) を持つ動的な力ではないことを完全に理解することは決してなかったようです。
それで、有名な微生物から人間へという物語は、生命が小さな暖かい池 (あるいは地熱噴出孔か何か) から出現するとされる空想と同じくらい不安定な根拠に基づいているように思えます。さらに、大いに喧伝されている「自然選択」は、ダーウィンが思い描いた形式では文字通り不可能な現象であるように見えるのですが、進化そのものはどうなるでしょうか?自然選択はそもそも、1859年以来、進化が起こったことのただ1つの証拠と目されてきました。真実は、自然選択および進化の両方が、ほぼ2世紀もの間、単純に私たちが互いに少々自己満足に過ぎるほど語り合ってきた物語だったということはあり得るでしょうか?奇跡のように見える地球という惑星のデザインは、本当に無方向性の自然による形成の結果ということはあり得るでしょうか?デザイナーなしで、何とかしてデザインを模倣することは可能なのでしょうか?その主張されるところの「模倣」は、正確にはどのように働くのでしょうか?ダーウィンの理論は、安易な答えを提供する以上に、手に負えない疑問を提起しているように見えます。
ダーウィンのブルドッグと評されたトマス・ハクスリーでさえ、無神論者とされた最初の国会議員チャールズ・ブラッドローと共に、今日の世界では批判されない、大した勇敢さであると流布されている無神論者というラベルを声高に否認しました。両者とも、自分には思いもよらないと告白した実体の存在を否定するのは不合理だということに気づいていました (ハクスリーは、不可知論者という用語を広く普及させることになりました)。ダーウィンもまた、無神論主義の布教者であった祖父とは異なり、後年には自らを有神論者 (Theist、ダーウィンは大文字のTを使っている) と呼びました。J・W・バロウが彼による『起源』の最初の新版の序文で述べたところによると、
ダーウィンが『起源』を執筆するまでに、彼は人生の最後まで抱き続けた結論、すなわち究極的な原因や目的に関する疑問は解決不可能な謎であるという結論に達していた。15
これは、ダーウィン自身が引いた慎重な境界線を大きく踏み越えることを選んだ、彼の知的遺産の継承者たちの多くが提示したものよりも、冷静で思慮深い結論のように思えます。その際、ダーウィンについてけりを付けるために、彼らは確かに越権行為に走ってきました。人間が行き着く、または知ることができる力を超えようとしたのです。
注釈
- Prickett, S. (2002) Narrative, Religion and Science. Fundamentalism Versus Irony. Cambridge: CUP. p. 18.
- Bodkin, M. (1958) Archetypal Patterns in Poetry [1927]. New York: Vintage をご覧ください。
- Landau, M. (1993) Narratives of Human Evolution. Yale: Yale UP.
- 「ダーウィンがビーグル号の甲板を歩き回りながら、広大で荒れ狂う思考の海原を孤独に航海していたという一般的なイメージは幻想である」。Browne, J. & Neve, M. (eds.) (1989) Voyage of the Beagle: Charles Darwin’s Journal of Researches. London: Penguin. p. 2 をご覧ください。
- Wordsworth, W. Ode on Intimations of Immortality. In: Evans, S. I. (ed.) Selections from William Wordsworth. (1983) London: Methuen. p. 107 (lines 114-16). (邦訳: 『ワーズワース詩集』、田部重治選訳、岩波文庫、1999、「幼年時代を追想して不死を知る頌」、170ページ)
- 初期の科学的反対についての私の説明は、以下をご覧ください。Thomas, N. (2021) Taking Leave of Darwin: A Longtime Agnostic Discovers the Case for Design. Seattle: Discovery Institute Press. pp. 61-7.
- とはいえ、彼は恐らく、世界は原子のさまざまな異なる配置の結果として偶然に生じたのだと説いていた、いわゆる原子論の哲学者エピクロスやルクレティウスといった古典時代の先達を知っていたことでしょう。フランスの自然科学者 (フィロゾフ) の中には、エラズマスとほぼ同時期に同様の見解を進めた者がいたことにも注意すべきです。
- Chambers, R. (1844) Vestiges of the Natural History of Creation. London: Churchill.
- この情報は、Wolfe, T. (2016) The Kingdom of Speech. London: Penguin. p. 8 に負うものです。
- Prickett, S. Narrative, Religion and Science. p. 131.
- Burrow, J. W. (1968) Introduction. In: Charles Darwin: The Origin of Species. Harmondsworth: Penguin. p. 48.
- Darwin, C. & Wallace, A. R., communicated by Sir Lyell, C. (1858) On the tendency of species to form varieties; and on the perpetuation of varieties and species by natural means of selection. Journal of the Proceedings of the Linnean Society. no numeration, August 1858. (論文が発表されたのは1858年7月1日)
- http://darwinonline.org.uk/converted/pdf/1860_Review_Origin_Biogenesis_Haughton_A1128.pdf (pp. 1-9, citation 7) をご覧ください。
- Nelkin, D. (2001) Less selfish than sacred? Genes and the religious impulse in evolutionary psychology. In: Rose, H. & Rose, S. (eds.) Alas Poor Darwin: Arguments Against Evolutionary Psychology. London: Vintage. pp. 13-27, citation 14. https://www.theguardian.com/education/2001/sep/07/highereducation.books
- Burrow, J. W. (1968) Introduction. In: Charles Darwin: The Origin of Species. p. 24.