Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

ダーウィニストは目の工学的完成度の説明を求める

This is the Japanese translation of this site.

 

デイヴィッド・コッペッジ
2022/4/22 6:55

 

昨日私たちは、トム・バーデンとダン-エリック・ニルソンによる、「人間の目は後ろ向きに配線されているから悪いデザインだ」という古い俗説を覆す『Current Biology』の論文を見ました。私たちは彼らが形勢を逆転させ、逆向きの網膜は、性能の点で実際には外向きの網膜と同等かそれ以上であることを示したのを見ました。脊椎動物の目は「完璧に近い」と彼らは言いました。「あらゆる動物の中で最も鋭い視覚」を持つワシに尋ねてみましょう。あらゆる動物にはより論理的な配置を持つとされる頭足類も含まれるはずです。ワシの勝ち! イカの負け! バーデンとニルソンは、「エンジニアの視点」から目に注目し、逆向きの配置の正当な理由を共有しました。彼らはデザインについて7回も語っています。「逆向きの網膜のデザインは恩恵である」と彼らは論じました。

 

それでも彼らは、目が盲目的で、無誘導の自然の過程によって進化したという立場を維持しています。どうしてそのように信じられるのでしょうか?この続編では、証拠にもかかわらず、彼らがダーウィン的物語を維持するために使う戦略について見ていきます。

擬人化

まず、彼らは進化をエンジニアに変身させます。擬人化はダーウィニストがよく使う策略です。リチャード・ドーキンスは、ペイリーの「職人」に代わって「盲目の時計職人」を想定しています。ダーウィンも自然選択に性別を与えました。

 

自然淘汰はただわずかな連続的変異を利用することによってのみ作用するからである。自然 [訳注: 原文は「彼女 (She)」] は決して大きな突然の飛躍をせず、緩慢ではあるが短く確実な歩みでもって進まなければならないのである。

 

進化論者は気ままに、自然選択のことを、手近にある奇妙な部品を何でも組み合わせて、ある解決策が「選択圧」によってもたらされた必要を不器用ではあっても満たすようにする「修繕屋」として語ります。結果として生じる構造はデザインの幻想を与えますが、理性的な行為者の仕事ではありません。ニール・トーマスはそのような、「純粋に自動的、または通常の経験や観察からかけ離れた奇術のような助力」によって工学的構造が発生するという話を「行為者なき行為」と呼んでいます。進化論者に奇術師は必要ありません。ウサギは帽子から自ずと、あたかも見えない手がその耳を引っ張ったかのように出現するのです。バーデンとニルソンが進化を擬人化し、盲目の調整者かつ機会主義者に変身させる様をご覧ください。

 

つまり、逆向きの網膜に伴う明白な課題は、進化による絶え間ない調整によって実質的に解消されたように見える。付け加えると、逆向きの網膜に伴って来る機会効率的に捉えられてきた。性能の面では、脊椎動物の目は完璧に近くなっている。[強調追加]

視覚化

バーデンとニルソンが用いた2番目の戦術は、視覚化です。彼らの論文の図3は、原始的な光受容細胞から、水晶体と網膜の間に「利用可能な空間」を持つ「高品質の空間視覚」へと進化する考えられる経路の3つの段階を示しています。「この空間は、光受容細胞が拾った画像を局所的に前処理するニューロンを追加すれば有効に埋めることができるだろう」とキャプションには書かれています。さて、擬人化された修繕屋が、そのような一等地を利用しないことはあるでしょうか?盲目の修繕屋に居住空間を与えれば、彼 (または彼女) はすぐに店を構えることでしょう。視覚化された図に欠けているのは、各段階の隙間における工学的なシステムへの巨大な飛躍と、それらがどのように強調して視覚を機能させるかという説明です。

必然性

バーデンとニルソンが用いたもう1つの戦術は、必然性という概念です。進化はその道を歩むことを強いられたのです。進化には選択の余地がなかったと彼らは示唆しています。なぜなら、光に敏感な細胞の層が最初に陥入しカップ状に形成され始めたとき、進むべき道が具体的に設定されたからです。

 

我々自身の網膜の向きの具体的な理由は、脊索動物以前の先祖において、背側表皮が神経管に侵入することによって神経系が内在化された方法にある。神経管における上皮の向きは、まさに裏返しになっている脊椎動物の眼杯は、神経管の前頭部 (脳) 部分から発達し、そこのあらゆる感覚細胞の受容部は自然に、神経管の内腔 (本来の外側) に突出する。一方、タコや他の頭足類の目は、皮膚に形成されたカップから発達し、元の上皮の外側はその向きを保つ

 

この戦術は、ダーウィニストに、同じ理論を使って正反対のことを説明する柔軟性を与えます。進化は、先祖が歩んだ経路に従わなければならないほど厳格ですが、その後の工学技術すべてにより完璧になるように最適化できるほど柔和なものなのです。しかし、もし自然選択にダーウィニストが帰するような魔法の力があるならば、先祖の伝統を捨て、眼杯を改造することもできたでしょう。理論的には、すべての革新はそのようにして始まるのではないでしょうか?

空気のように何もない

著者たちが用いた最も卑劣な戦術は、ニール・トーマスが「概念用語」と表現したものです。これは、証拠を疑似事実で置き換えることによって、困難を糊塗する「空気のように何もない」かつ「空虚なシニフィアン」です。トーマスは、擬似事実とは「経験的な根拠や何らかの実世界で確認できる指示対象がないにもかかわらず、それを提唱する人が真実であるとする主張」(斜体は原文) であると言っています。この戦術を使うには、自分の考えが真実であると仮定するだけでいいのです。複雑なものは進化しました。それらは発生しました。それらは出現しました。それらは生じました。それらは始まりました。それらは到来しました。それらは発展しました。それらは改善されました。

 

双極細胞が出現し錐体細胞ガングリオン細胞の間に入り込み、感覚末梢のただ中で第二のシナプス層を提供するようになった。さらに、水平細胞とアマクリン細胞が加わることで、さらに精巧なものになった。その結果、現存するすべての脊椎動物に存在する、構造的に非常に定型化された神経組織のシートができた・・・。

 

このように、証明される必要のあることを前提にした概念用語は、警戒していないと気づかないうちにすり抜けてしまうことがあります。以下はそのうちの2つで、眼球には欠陥がないという親ID的論議で読者の注意をそらすものです。

 

脊椎動物の網膜の向きに基本的な欠陥があるという論議は、我々が遭遇する、大いに拡大した状態の眼球を、そのより粗末な起源との比較のもとに組み立てられている。脊椎動物視覚がカンブリア紀初期に始まったところから、現在の我々は5億年以上の道を歩んでいるのである。

 

読者が注意を払わなかったなら、眼はカンブリア紀初期に粗末な起源があったと彼らは告げられるのです。より真実味のある陳述は、「脊椎動物の網膜の向きに基本的に欠陥があるという論議は、ダーウィン的進化論の前提のもとに組み立てられている」といったところでしょう。

コンセンサス

バーデンとニルソンは、進化がどのように工学的完成度を高めたかについて詳細を説明する必要はない、なぜなら科学コミュニティはすでにダーウィン的進化が生物学のすべてを説明するというコンセンサスに達しており、それを当然のこととしてよいからだ、と反論するかもしれません。これは権威に訴える論証の一形態ですが、この例ではもっとひどいものです。前の投稿で示したように、目の進化に関する最も強力な主張 — リチャード・ドーキンスが公然とそれを称賛したほどに強力 — は、ジョナサン・ウェルズとデイヴィッド・バーリンスキが暴露した1994年の図表であり、ニルソンはその張本人の一人でした!それを当然と考えるのは、1994年にユニコーンの絵を描いて、2022年にその絵をユニコーンの証拠とするようなものでしょう。進化論者がこの1994年の記事に飛びついたのは、ダーウィンがこの「極めて完全な器官」である目を考察して寒気を覚えて以来、これ以上のものが示されなかったからです。

マスターナラティブの力

科学の修辞学と呼ばれる比較的珍しい専門分野の博士号を持つのは、『Doubts About Darwin』(2003年) の著者であるトーマス・ウッドワードです。この本の中で彼は、ダーウィン対デザインの討論の歴史における「空想テーマ」(彼は「投影テーマ」と呼ぶことを好んでいる) の役割について吟味しています。その一つが、宇宙はより高い複雑性に向かって連続的な道を歩んでいるという「進歩の物語」です (52ページ)。ヴィクトリア朝の雰囲気に進歩の思いの香りがしていたとき、進化が広く受け入れられるためには、経験的データではなく、これらの投影テーマが最も重要でした。ダーウィンとその後継者たちは、一部は「事実に基づく経験的な物語」、一部は「半想像的な物語」という、単純で説得力のある物語を持っていました (22ページ)。

 

ダーウィン主義者が、ID支持者には認知的不協和に見えること、すなわち自然は精巧に設計されているが、盲目的な過程によって出現したという見解を維持し続けていることを理解するためには、観察者たちはダーウィン主義者がデザイン革命を阻止するために用いる投影テーマや修辞戦術を認識する必要があります。バーデンとニルソンが使ったものは、経験的事実に訴えるだけでは克服できません。それらが策略であることを暴き、より強力な証拠と論理に基づいたより良い物語に置き換えることが必要です。