Japanese Translation of EVOLUTION NEWS & SCIENCE TODAY

https://evolutionnews.org/ の記事を日本語に翻訳します。

宇宙、カオス、そして世界における特権的な住所

This is the Japanese translation of this site.

 

ニール・トーマス
2021/8/26 18:12

 

編集部注: この記事は『Taking Leave of Darwin: A Longtime Agnostic Discovers the Case for Design』(ニール・トーマス著、Discovery Institute Pressの新刊) からの抜粋です。

 

およそ1世紀前、哲学者のバートランド・ラッセルは、意味や形而上学的な慰めのない宇宙に身を置くという苦境を自覚することについて、いくつかの厳粛な言葉を残している。

 

人間は、成就しつつある目的の予想もつかないいろいろな原因の産物であり、人間の発生、生長、希望、恐怖、愛、信仰がアトムの偶然な排列の結果であり、いかなる情熱も、英雄主義も、思索と感情の強烈さも、墓場を超越して人間の生命を残存せしめることはできないこと、幾時代のあらゆる労力も、献身も、霊感も、人間天才の真昼の明るさも、太陽系の厖大な死と共に滅亡しなければならない宿命を持つており、人間の業績のすべての殿堂も、壊滅する宇宙のあくたの下に必然的にうずもれなければならないということ — たとえまったく反駁されないとは言わぬまでも — すべてこういつたことがらは、殆んど確実であつて、それらのことがらを拒否するところの哲学は存立することを望むことはできない。これらの真実の枠内においてのみ、この動きの取れない絶望の確固たる基礎の上にのみ、心のよりどころは、これから先、確固として、うちたてられ得るのである1

 

文学史家である私にとって、ラッセルのやや男性的な、軍人であるかのような口調での堅固な反抗は、ある種の認知的ショックを引き起こした。堂々とした言葉を裏から支えている感情は、古代世界や中世初期の英雄詩を伝える戦士のエートスの中にあっても違和感はないだろう。このような逆境下でのヒロイズムは、バイキングの襲撃者の手によるアングロサクソンの陰鬱な敗北を記録した古英語詩「モルドンの戦い」(西暦991年) で称賛されている、揺るぎない勇気を彷彿とさせる。「精神はより強かれ / 心はより激しかれ / 勇気はより大きかれ / 我らの力の衰えたれば」。

 

ラッセルの時代には、ニーチェによる「神の死」を躊躇せずに受け入れ、何世紀にもわたって権利を剥奪された状態に自身や自身の種族をとどめてきた奴隷道徳 (Skravenmoral) に勝利を収めていくべき超人 (Übermensch) についての影響力のある哲学に、この古い英雄的エートスの響きが表現されていた。 ナチスニーチェの哲学をジェノサイドの事例を支持するための道具としたことで、第二次世界大戦後、ニーチェが無視されるようになったのは理解できるが、時折「新無神論者」と呼ばれる闘争的な作家たちの集団の出現によって、このドイツ人哲学者はある意味で復活を果たしたように見える。特にリチャード・ドーキンスは、軍人であるかのような、ニーチェラッセルの両者を彷彿とさせる口調で、死後の不可避の空虚に立ち向かう勇気を持ち、荒涼とした実存主義者のヒロイズムと同様の精神で、「われわれが観察する世界の特徴は、実際にいかなる設計も目的もなく、善も悪もなくて、ただ見境のない非常な無関心しかない世界に当然予想される特徴そのものなのである」という謹直な啓示を前にして目をつぶらず、自分の人生を恐れずに切り開いていくことを説いている2

ドック入りしたニヒリズム

ドーキンスラッセル、ニーチェの説教がいかに勇気あるものであったとしても、それらはある種のセピア色を帯びた時代遅れのものになってしまったと言えるかもしれない3。この半世紀の間に、宇宙論の世界の進歩により、私たちの惑星がほとんど奇跡的なほどに生物に優しい、つまり生命のために気の遠くなるような数々の方法で微細調整された緑のオアシスであることが明らかになった。観測可能な宇宙の残り全体で見られるのがおそらく冥王代の深部とほとんど変わらないのとは対照的である。天体望遠鏡のレンズを通して見ると、ラッセルが呼び起こした絶え間ない敵意に満ちた世界の無情な広大さしか見えないのは事実だが、この地球上で私たちの周りを見回すと、観測可能な宇宙の残りの部分とは全く不連続で、あまりにも多くてほとんど気づかれないほどの恵み深い現象に富んでいる惑星であることがわかる。

 

物質的な力が非常に長い年月をかけて無心に攪拌した結果、ついに人間の生命という計画外の異常を噴出するというラッセルの仮定 — 彼はかつてこれを「(宇宙の) 僻地での奇妙な事故4」と呼んだ — に対し、1973年に天体物理学者のブランドン・カーターが初めて公式に異議を唱えた5。カーターは「人間原理」(アンスロピック・プリンシプル、ギリシャ語のアンスローポス (人間) から) という言葉を提唱した。カーターの詳細な計算によると、我々の惑星が居住可能で、かつ地球のような居住可能な惑星を産み出して保持できるような宇宙に存在するという事実は、ビッグバンの最初のナノ秒にまで遡る、多数の微細に調整された条件によってのみ得られる。地球が生命維持のために微細調整されていることは以前にも多くの方法で指摘されていた6が、カーターは一歩進めて惑星と宇宙的ファインチューニングを公式化し、物理学者、天文学者、宇宙学者のコミュニティで、このファインチューニングの可能な説明について幅広い対話を活発化させたのである。

 

すでに1960年代に、科学者たちは物理学における他の不可解な偶然の一致の中に奇妙なつながりがあることに気づき始めていた。これらの不思議な値の多くが、ひとつの包括的な事実によって説明できるということが明らかになったのだ。それらの値は、人類をはじめとする生命の誕生と保全に必要だったのである。電磁力や重力の個々の強さなどを表すいくつかの基本的な定数は、人間の必要に合わせて、(小数点以下めまいがするほどの桁数の) 驚異的な精度で調整されているように見える。地球もまた、1世紀以上前の科学者が知らなかったような多くの方法で、人間の必要に応えている。例えば地球の磁気シールドは、生命に必要な成分が大気から失われることを防いでいる。これに加え、他の様々な惑星的条件があまりにも多くなったため、宇宙生物学者の中には、銀河系の何億もの星の中から他に居住可能な惑星を見つけることを絶望視する者もおり7、その他大勢も少なくとも、銀河系におけるすべての第3または第4惑星に居住可能なものが見つかるという期待について語ることはなくなった。

私たちの特権的惑星

地圏と生物圏の両方が存在することが確認されている唯一の場所である地球と、宇宙の他の部分との間のこの根本的な不連続性を、私たちはどう考えればよいのだろうか?生命を育む生物圏と、宇宙の他の大部分にある絶え間ない死は際立って対照的である。

 

そういうわけで、宇宙における私たちの場所が、コペルニクス以前に考えられていたような世界の中心ではないにしろ、少なくとも「特権的」であるとカーターが結論づけたのは、それなりの理由があったのだ。もちろん、これは少しパングロス的に聞こえる。パングロス的とは、ヴォルテールが創作したパングロス博士という架空の人物にちなんでおり、18世紀の男女が「あらゆる可能な世界で最高のところに住んでいる」という馬鹿げた文句で啓蒙主義者の軽信をからかった。しかし、私たちが世界の中でも特別に恵まれた場所に住んでいるというカーターの証拠を疑う余地はない。居住可能性のために様々な方法で微細調整されていることを考えると、カーターが選んだ「特権的」8という形容詞は控えめな表現と言ってもいいように思える。文字通りまたは比喩的な意味で、「比類なく祝福された」という言葉を好む人もいるだろう。

 

当初専門家の会議で発表されたカーターの所見は、その新たな発見に有神論的な意味合いを持つ可能性があると困惑した科学者からの反対意見にもかかわらず、宇宙論の理解の主流に組み込まれていった。宇宙物理学者のポール・デイヴィスは、過去数十年間に専門家や一般人向けに出した一連の本の中で、地球環境が生命にとって偶然にしてはあまりにも素晴らしく適合しており、物理法則が人類を支えるために不思議なほど微細調整されているように見えるという認識を天文学者たちが深めていることを詳しく述べている9。このような証拠は、アメリカの動物学者ジョージ・ゲイロード・シンプソンが何十年も前に述べたような、宇宙における私たちの居場所は、「私たちのことを留意していなかった」宇宙の変遷の過程によって生まれたという古い意見に反するものである10

証拠に従う

おそらくこれらの要因は、いわゆるコペルニクス革命11によってもたらされたとされる人類の降格を相対化するのにも役立つ。カーター自身が1973年に人間原理の概念を紹介して大きな影響を与えた論文の中で述べた点である。私たちの太陽系が天動説的ではなく地動説的であることは言うまでもないが、地球が多くの方法で生命のために異常なほど、そしておそらく独特な形で微細調整されていることを明らかにしている最近の研究は、物理学や化学の普遍的な法則が生命の存在を可能にするように微細調整されているように見え、実際には私たちのような高度な陸生生物を可能にするように微細調整されているという発見も合わせると、証拠に従うことに真剣であるならば、単に無視することはできない。マイケル・デントンにとってこの証拠は、コペルニクス以前の中世の人間中心的世界観のようなものに戻る兆候である。中世の人々は多くのことについて誤っていたことを彼は認めているが、偉大な宇宙的ドラマの中で人類が卓越しているという彼らの最も不遜な信念は、時の試練に耐えてきたようである12

 

以上のことから、生命はやはり、単に宇宙のサイコロがたまたま落ちたところの偶然の結果ではないのではないかと推論される。少なくとも、単なる偶発事象を超えた大きな力が、この恵み深い配剤をもたらしたという推論は論理的に妥当と言える。このような理由からデントンは、科学と神学は別個の認識論的領域、スティーブン・J・グールドの少々煩雑な言葉づかいを借りれば「非重複教導権 (マジステリウム)13」(=領域) を占めていると見て軽率に諦めてしまった現代のリベラル神学者たちには同意できないのである。多くの人の注解によると、この表現は、真理を識別する権利を科学に譲り、宗教は主観的な価値についてのより周辺的な領域に限定されるという、丁寧な婉曲語法である。

 

デントンはそれに反対し、自然の法則 (と何であれそれを作動させるもの) が生命を支えるために特別に考案されたものであるという証拠を科学が提供しているのだから、むしろ重要な重複があるとしている。マジステリウムは重複しており、科学者と神学者が一緒になって対話するように促している。このように考えると、現代の神学者、そして一般的な宗教者は、科学という強大なベヒーモスを前にして無抵抗になるあまり、その過程で、本来ならば目に留まるはずの科学的な証拠を見逃してきたのではないだろうか。

注釈

  1. バートランド・ラッセル、『Why I Am Not a Christian』 [1927年] (ニューヨーク: Simon and Schuster、1957年)、107ページ。(邦訳:『宗教は必要か』、大竹勝訳、荒地出版社、1975年、124ページ)
  2. リチャード・ドーキンス、『River Out of Eden: A Darwinian View of Life』 (ニューヨーク: Basic Books、1995年)、133ページ。(邦訳:『遺伝子の川』、垂水雄二訳、草思社文庫、2014年、186ページ)
  3. このことは、早くも1970年代に哲学者のリチャード・スピルスベリーが『Providence Lost: A Critique of Darwinism』(オックスフォード: オックスフォード大学出版局、1974年) の、特に111-130ページで指摘していた。
  4. バートランド・ラッセル、『Religion and Science』(ロンドン: Thornton Butterworth、1935年)、221-222ページ。(邦訳:『宗教から科学へ』、津田元一郎訳、荒地出版社、1965年)
  5. ブランドン・カーター、「Large Number Coincidences and the Anthropic Principle in Cosmology」、第63回国際天文学連合シンポジウム (1974年): 291-298ページ、 doi:10.1017/S0074180900235638。
  6. ダーウィンを指導したウィリアム・ヒューウェルは、この惑星が生命にとって奇怪なほど適合していることに言及していたし、アルフレッド・ラッセル・ウォレスも1903年に出版された『Man's Place in the Universe』でそうしていた。マイケル・A・フラナリー、『Alfred Russel Wallace: A Rediscovered Life』(シアトル: Discovery Institute Press、2011年)、87-89ページ参照。この論題については、ローレンス・J・ヘンダーソンによる画期的な著作、『The Fitness of the Environment』(ニューヨーク: MacMillan、1913年) も参照。
  7. ギリェルモ・ゴンザレスとジェイ・リチャーズ、『The Privileged Planet』(ワシントンD.C: Regnery、2004年); ピーター・ウォードとドナルド・ブラウンリー、『Rare Earth』(ニューヨーク: Copernicus、2000年); デイヴィッド・ウォルサム、『Lucky Planet』(ニューヨーク: Basic Books、2014年) を参照。
  8. ブランドン・カーター、「Large Number Coincidences」、291、293ページ。
  9. 何冊かの本でポール・デイヴィスはこの点をさらに発展させている。それには、『The Accidental Universe』(イギリス、ケンブリッジ: ケンブリッジ大学出版局、1982年)、『God and the New Physics』(ロンドン: Penguin、1990年)、『The Fifth Miracle: The Search for the Origin of Life』(ロンドン: Penguin、1999年、邦訳: 『生命の起源 地球と宇宙をめぐる最大の謎に迫る』、木山英明訳、明石書店、2014年)、『The Goldilocks Enigma: Why Is the Universe Just Right for Life?』(ロンドン: Penguin、2007年、邦訳: 『幸運な宇宙』、吉田三知世訳、日経BP、2008年)、『The Eerie Silence: Searching for Ourselves in the Universe』(ロンドン: Penguin、2010年) などがある。
  10. ジョージ・ゲイロード・シンプソン、『The Meaning of Evolution: Revised Edition』(ニューヘイブン: イェール大学出版局、1967年)、345ページ。
  11. 歴史学者の中には、天動説的宇宙論から地動説的宇宙論への移行が、ルネサンス期の学者の目に地球の地位を実際に降格させたのかを疑問視する者もいる。コペルニクスが挑戦した中世の天動説的宇宙論では、地球は世界の底または水ためとみなされていた。この観点からすると、地動説モデルは地球という惑星の立場を向上させるものだったとも言えるだろう。この問題についてのより詳細な分析は、マイケル・ニュートン・キース著『Unbelievable: 7 Myths About the History and Future of Science (デラウェア州ウィルミントン: ISI Books、2019年、91-107ページ) を参照。
  12. マイケル・デントン、『Nature's Destiny: How the Laws of Biology Reveal Purpose in the Universe』(ニューヨーク: Free Press、1998年)、370ページ。
  13. ティーブン・J・グールド、『Rock of Ages: Science and Religion in the Fullness of Life』(ニューヨーク: Ballantine、1999年、邦訳: 『神と科学は共存できるか?』、狩野秀之/古谷圭一/新妻昭夫訳、日経BP、2007年) を参照。